Beyond Traditions 悟り−伝統を超えて− |
本書を、目に見えざる〈知性−恩寵〉に捧ぐ。この〈知性-恩寵〉こそ、かつて初めて人を、絶対状態へ、ハートの状態へ、そして更なる向こうへ、と目覚めさせ、かくして人類の意識に悟りというものをもたらしたのもである。
その無条件的な愛と導きにたいして、私たちは尊敬と感謝をもって頭を下げる。願わくば、その普遍的な存在者の祝福が、その智恵を探究する個々すべての地上の存在にもたらされるように。
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第一部 内側の領域 |
第二部 人間の領域 |
第三部 神性の領域 |
第四部 全一の領域 |
理解の次元からの伝達
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まえがき
本書の大本となる〈精神〉は、そもそもの最初から、人間の知性を導き、〈理解〉の光へと向かわせてきた。この〈精神〉は決して、過去に達成された精神的伝統を否定するものではなく、それを自分自身の過去の進化として包含し、超越していく。
マインドはその傾向として、過去の精神的結論を究極のものとして固定しようとする。しかし、〈精神〉は決してその永久なる発展の旅を止めようとはしない。なぜなら〈精神〉の本質は〈自由〉だからだ。
今、人間の集合的意識は、非常に深淵な〈究極的真実〉の理解に到達した。その理解は、幾つかの偉大なる〈悟り〉の学派内に存在している。これらの伝統は数千年前に創出され、そして現在に至るまで進化してきた。しかしながら、そうした進化は今までのところ、その基盤となってきた一定の哲学的理解を越えることができない。その基盤は過去の環境の中で創り出されたものだからだ。
私たちの試みは、現段階の精神的進化に適合した理解をもたらすことだ。それによって、〈普遍的な全一性〉へと十全に発展することが可能となる。
それゆえに、過去の伝統に対する心よりの敬意と感謝とともに、私たちは本書において、〈覚醒〉と〈理解〉の新次元を明らかにするものである。
過去の伝統が含んでいたのは、ひとつの次元のみであった。それは〈内的状態〉への発展である。すなわち、原初の「白き光」の状態へ回帰することが最高の理想であり、その結果、それ以外の成長の次元をすべて否定することになった。成長の目的が〈原初の状態〉への回帰であったから、自然、そこには、〈私〉Me
という全包含的全体性へのポジティブな進化というものは存在しない。
しかしながら、〈私〉への目覚め ―
その〈私〉というのは〈魂〉であるが ―
こそが私たちの第一の務めである。
同じ原初の「白き光」の一表現である〈虹〉が発現しうるのは、唯一、まさにこの〈私〉の存在が十全に認識され味わわれ、その内に〈内的状態〉が完結し超越されたときのみである。
1. 無智
無智は広く存在している。というのも、それはほとんどの人間の体験を構成しているからだ。
無智においては、〈私〉は完全に断片化し、無意識で、何の中心も土台もない。機械的なマインドがすっかり「心」を支配し、〈実在〉Being やハートの体験を許さない。
この状態では、人はすっかり、心的な出来事や、思考、感情に自己同化している。中心がないので、思考や感情が現れるたびに、そのひとつひとつが別個の〈私〉を作り上げる。ちょうど夢の中のように、人はまったく対象化された現実を生きる ― あるいは、自分そのものがその対象化された現実だ。そこには主体が存在しない。〈私〉は対象化され、そして、知覚され思考されたものと同一化される。それゆえ、そこに感じられる苦悩と否定性は非常に大きなものとなる。
無智の状態とは、極めて平板で狭い世界だ。深さがない。この状態においては、気づきと感受性の機能は非常に限られ無意識的だ。この状態においては、魂は苦悩し、かつ、自分自身に気づいていない。無意識が君臨している。人はエゴ・イメージの世界に生きている。自分自身を知覚するにしても、いつも外の物を通じて行う。
無智とは意識的な状態とは言い得ない。それは意識と無意識との間にある。それはぼんやりと曖昧で、真の主体が欠けている。それは超越すべきものだ。人はすべからく、早晩、それに挑むことになる。
2.〈われあり〉の目覚め
〈われあり〉I Am とは、思考や感情以前の、自分自身の全面的な体験だ。この体験は、気づき (注意)、〈実在〉Being のエネルギー、ハートの総合だ。
この三要素すべてが、自分自身の中にしっかり根づいて初めて、〈全一性〉が現れるに至る。
注意
マインドを超越するためには、まず第一に、注意の要素を目覚めさせる必要がある。それによってマインドの中で意識的になることができる。この注意はマインドの中で生じ、そしてそれによって、マインド自身の無意識的で機械的な面が超越される。
自己を認識する注意が、自分自身を、「知覚されたものごと」と分離して見るとき、そこに〈覚〉の状態 State of Presence が生まれる。
注意を養成する目的は、この〈覚〉Presence を安定化させ、確立させることにある。そして最終的に〈覚〉は、しっかりした気づきの中心となり、心理学的な自己の背景に常住することになる。
しかしながら〈われあり〉の他の局面が育たず、〈覚〉のみが養成されると、非常にバランスを欠くことにもなる。
〈実在〉Being
〈実在〉の局面は、〈覚〉の局面に、必要な深さを与える。〈実在〉なしの〈覚〉は、緊迫しすぎており、安らぎと手放しの要素を欠いている。
〈実在〉の局面を養成することによって、〈覚〉のエネルギーは、自然な重力によって引っ張られ、身体全体を通って下に落ちていく。
まず第一に、注意を〈覚〉に向け変えることによって、マインドを手放す。
次に、自己参照する〈覚〉をリラックスさせる。すると〈覚〉は徐々に、無為の状態、無努力の坐、純粋な瞑想へと、溶け去っていく。
当然ながら、日常活動の中では、注意の局面の方が表面に出ている。一方、坐って瞑想しているときは、〈実在〉の局面の方が表に出る。
この時点では、〈われあり〉の注意と〈実在〉の局面が存在する。
ハート
たとえ〈実在〉と〈覚〉の状態にあっても、覚醒したハートの深い感受性がないと、完全なる〈われあり〉の体験からはほど遠い。
私たちはハートを感性の中心として語るが、それはまた同時に、〈実在〉のひとつの次元でもある。ハートのエネルギー的な存在は、〈覚〉と〈実在〉の涼しさに、温もりをもたらす。ハートとは内側と外側とのバランスだ。それがないと、人はあまりに内側に引っ張られ過ぎ、外側との関係がうまく広がらない。本質的に私たちは感じる存在であり、〈私〉という私たちのアイデンティティーの中心はハートに位置している。ハートがないと、根本的な感受性と内側の美を体験することができない。
注意を養成すると同時に、他の二つの局面に働きかけることによって、私たちは徐々に〈われあり〉の全体的な体験へと近づいていく。これら三つの局面が確立して初めて、充足と幸福が感じられる。
3.絶対状態
〈われあり〉の下には、絶対的な休息がある。〈絶対〉とは、〈われあり〉の〈実在〉面の秘密だ。注意やハートは〈絶対〉に到達することができない。完全な明け渡しは〈実在〉を通じてのみ起こる。
〈絶対〉への移行以前には、〈実在〉の体験は〈われあり〉に属している。それは、〈私〉の一部だと言うことができる。あたかも、〈実在〉のエネルギーがその自己意識の枠を超えられないかのようだ。
それゆえに、〈われあり〉の〈実在〉面 ― それによって平安と休息の体験がもたらされるのだが ― は、絶対的な休息に到達することができない。〈われあり〉の内に体験される平安と休息の場合には、エネルギーと意識にまだ動きが存在する。それは素晴らしいものであり、ほとんどの魂にとっては究極のものだ。
しかしながら、〈われあり〉を超える更に深い体験というものがある。〈絶対〉への移行は、〈われあり〉の〈実在〉面を、その原初の不在へと拡張させる。それは意識やエネルギーに先立つ領域だ。
〈実在〉面内でのアイデンティティーの中心は、〈源泉〉へと引っ張られる。それで、人は非常に不可思議な仕方で、〈われあり〉以前のところに置かれる。ここにおいて、〈純粋な休息〉の状態が出現する。
〈われあり〉の〈実在〉面は自分自身を完全に手放し、〈不生〉に迎え入れられる。ここで〈私〉は最終的に、宇宙的な『われあり』I AM の現れの中に、自らの不在を体験することができる。
4.最終的な悟り:〈私〉へ
〈私〉Me は、精神的探求の道に入り、内的状態もすべて完了しているかもしれない。にもかかわらず、不可思議なことに、自分自身に無意識な状態にある。〈われあり〉を悟り、〈絶対〉を悟っているにもかかわらず、悟りに到達している〈私〉に気づいていない ― 。
誰が探求者なのか。誰が発見者なのか。ここに初めて、伝統的な知識を超えた、まったく新しい理解が現れる。〈私〉への目覚めだ。
しかし、内的状態を達成しないかぎり、〈私〉が真にどのようなものかはわからない。内的状態が曇りなき鏡となって、〈私〉が最終的に映しだされ、把握されるのだ。
ハートが目覚めないかぎり、〈私〉は表だって現れてこない。〈私〉の中心、本質は、ハートの中にある。私たちはそれを魂と呼ぶ。ハートの中で初めて、〈私〉は自分自身と全面的に出会う。
しかしながら、まず最初に、〈実在〉の内的静寂と深さ、気づきの明晰さという基礎は絶対的に必要だ。
ハートが目覚めると、それはもはや胸の真ん中ではなく、自分の存在全体に拡がる。
〈私〉とは何か。それは、自分なるもののすべてだ ― それは絶対的に個人的で、親密だ。それは、〈覚〉と、〈実在〉の静寂と、ハートの温もりや感受性、そして知性の動きがひとつになったものだ。
〈私〉が自分自身に目覚めるとき、それはもはや「他の状態」の内に安らぐのではなく、自分自身の内に安らぐ。無努力の在り方で、それは宇宙的な『われあり』とひとつになり、〈創造主〉と出会う。
〈私〉への悟り、それは魂の開花、「個の進化」の開花であり、それ自身を通じて、その究極の拡張へと到達する。それは、自らの究極の境界を超え、宇宙的な『われあり』を把握し、その中に溶け入っていく。ここにおいて、個的な〈私〉は自分自身を超越し、一体性と分離を超えた至高の次元へと入っていく。
第一部 内側の領域
〈覚〉へ
無意識という夢から目覚めることは、つらく、複雑なプロセスだ。
私たちの望みは、個人的な次元と精神的な次元がいかに互いに関わり成り立っているか示すことであり、いかに精神的な覚りのプロセスが展開するかを示すことだ。
個性人格(パーソナリティ)は、このプロセスにおいては障害物とはみなされず、むしろ、〈非−現象界〉に向かう道の不可分で必須の要素となる。
後で、私たちは個性人格に戻りたいと思う ― 個性人格が現象界におけるその目的を成就し(精神的成就のほかに)、同時に原初的状態によって示されるときに。
〈自己〉へ
マインドの機能にすっかり自己同化している人間が、「なること」becoming から「あること」being へと、いかに光を転じ戻すことができるか。
「なること」be-coming は、「存在」 be に 行こう coming とする、決して終わりなき、そして満たされることなき動きだ。「なること」be-coming は、決して「存在」 be に 行く come ことができない。なぜならそれは休息することができないからだ。「なること」は休息ということを知らない。「なること」とは時間であり、時間とは現象界だ。現象界は「なること」だ。
〈実在〉Being の状態を探求するとき、私たちの望むことは、存在界の中に「なること」を超えた場所を見つけたいということだ。ひとつの視点から言うと、私たちは時間の囚人だ。逃れるすべはない。というのも、私たちは時間にほかならないからだ。
〈実在〉とは何か。原初的状態は、ただ、ある。そこに時間の要素はない。〈実在〉とは、現象が〈源泉〉と出会う場所だ。
この出会いによって生み出される新たな質は、「なること」を超え、また〈絶対〉の「ただあること」を超えている。
この新たな質が、〈実在〉Be-ing と呼ばれる。
〈実在〉とは休息の状態、すなわち、動かない状態だ。それは時間の中に生起するが、時間に属するものではない。
〈実在〉という状態は、「なること」−それは時間だが−が、その無時間的な源とひとつになり、〈休息〉の状態を生み出すことだ。
〈道〉へ
まぼろしを超えようという願望が生じるとき、それは貴い〈道〉へと入るときだ。
内なる声が聞こえるが、さてどのようにそれに応えるか。
どちらの方向に進むか。どうやって始めるか。
瞑想と探索
それは私たちの旅において、最も重要な二つの要素だ。
瞑想とは、内側の真実に直接入っていく技だ。
探索とは、知性の非常に重要な使い方だ。すなわち、知性の中の直感的な能力を使い、成長のプロセスを加速し、また真実と幻想を見分ける道具をもたらしてくれる。
それぞれ別物に見えるかもしれないが、実際には、互いに深く関わっている。瞑想によって集中力や注意力やサマーディが養われるが、探索なしには理解も智恵もない。
より深いレベルには、私たちの本質的な二つの質がある。〈実在〉と〈理解〉だ。
〈理解〉なしの〈実在〉は鈍重で受動的だ。〈実在〉なしの〈理解〉は、昂ぶって落ち着きなく、基本的な静寂が欠けている。
瞑想は探索によって支えられる必要があり、また、瞑想なしの探索は無意味で頭だけのものになる。
一面的な姿勢はよくあることだ。瞑想なしの探索は極めて限定的だ。精神的な情報をたくさん貯めこみ、多くのマスターたちに出会い、精神的なことに関する観念的な答えを多量に持ち合わせながら、実際の修練を行わない。するとどんな状態にも到達できない。逆に、沈黙の領域からますます遠ざかってしまう。
探索なしの瞑想もまたよくあることだ。特に、〈実在〉の次元にあまり知的に関心のない人々によく見受けられる。そうした人々は通常、「瞑想とは無思考だ」と主張し、あらゆる一面的な見方を鵜呑みにして、自然な探索的マインドに蓋をしてしまう。多くの禅の学徒はその範疇に属している。すなわち、自分自身のマインドを直接吟味するよりも、難解晦渋な禅問答や語録について考えることを好むのだ。
瞑想とは単に「無思考」ではない。瞑想は思考を超えている。そして思考を超えるとは、思考と無思考を包含している。
坐して瞑想するとは、想念の生起よりも自然に深い意識状態に入るということだ。思考によってその深みが減るわけでもなければ、無思考によってそれが増すわけでもない。瞑想とは「無為」であり、その中で私たちは自身の相対的な意識を手放す。しかしそれは無為であるけれども、にもかかわらず達成すべきものだ。
「瞑想」というものがあり、また「瞑想に到達する」ということがある。それは達成すべきゴールであり、また同時にゴールへの道であり、また同時に完全なる状態の存在だ。純粋な瞑想的状態 (只管打坐) に達するプロセスで、そのゴールは密かに既に存在しているのであり、そして、時に応じて瞑想者の体験の中に自分自身を現す。先に進めば進むほど、ゴールと道とはひとつになっていき、最終的に道はゴールの中に消え去る。
瞑想のより深いレベルに進む前に、まず少しばかり道の始まりについて述べておこう。ひとつ大事なことは、修練の成熟は時間によっては計られないということだ。意識の状態が唯一の基準だ。
「道」に入ったばかりで今まで何の経験もない人は、ただ思考しか知らない。ただ思考しか知らないこのマインドに、突然、思考を超えたいという願望が生まれる。どうしたらいいのか。興味ある問題ではあるまいか。思考を超え出る秘密の扉はどこにあるのか。
たとえばマントラや集中の技法によってマインドを麻痺させることもできようが、もちろんそれによって思考を超えていくことはできない。思考を超えるには、極めて深い気づきが必要であり、単に人工的・半瞑想的な技法で催眠術をかけても無意味だ。
私たちは無意識的であるから、沸き起こってくる想念の中で、いつも注意が失われてしまう。私たちはそうした想念になってしまう。想念のほかに、いったい私たちは誰だろう。想念こそが私たちの生だ。私たちは単に自らの生活について考えるのみならず、実際、自らの生活を考えるのだ。自分の想念がかくも愛しいのも当然のことだ。残念ながら思考は非常に機械的なものになり、更に大概において、強迫観念のようになっている。あまりにも自分の保身と幸福のことを考え過ぎるために、その思考そのものによって基本的な平安と健全さが損なわれてしまう。
ひとつの想念が出現すると、私たちの意識的あるいはむしろ半意識的なマインドは自動的に巻き込まれ、新たな想念の流れが私たちをクルクル回す。それには終わりがないかのようだ。幸いなことに、マインドの非常に貴重な能力のひとつとして、ときどき自己意識的な衝動を生み出す。それによって、マインドは自分自身を顧み、自らの直前の過去を意識する。こうした瞬間、私たちは、自分が今まで考えていたことを認識するのだ。たとえば、よくあることだが、私たちが白昼夢を見ている、ところが突然、誰かによってハッと現在の瞬間に連れ戻され、我に返って、ゼロ地点へと戻る。
私たちもまたまったく同じメカニズムを用いて、機械的マインドから気づきへと進んでいく。私たちの仕事は、この自己意識的な衝動を、継続的な注意力へと変容させることだ。
瞑想の中で私たちは、この自己意識的な衝動を道具として使って、自分自身を現在の瞬間へと連れ戻している ―思考への習慣的な巻き込まれを矯め直すのだ。
まず自分自身が考えていることに気づき、できるだけ早く経験的な現実へと戻る ― つまり、自分自身が座っているということを感じ、自分の周囲のものに対して現前する。
マインドが自己意識的なのはほんの一瞬なので、思考に巻き込まれていたことに気づきながら、同時に次の思考の中に陥っていく。だから「衝動」と呼ばれるのだ。マインドはまだ自己意識的ではないが、自己意識的な衝動はいくらもある。
「現在の瞬間」はここでは非常に曖昧な仕方で体験される。つまり対象物に関連している。マインドはまだ自己意識的ではない。というのもマインドはまだ、自己意識的な衝動を自分自身の中に包含できないからだ。つまりその中にいることができない。
この自己意識的な衝動の感触を、「この瞬間にいる」と呼ぶことができる。この種の「この瞬間にいる」はまだ〈覚〉の質を持っていない。と言うより、経験的時間の中にいるということだ。(心的時間に対して)。ここでは、直前の過去から現在へそして次の瞬間へという時間の流れが、それを体験する際、微妙な記憶によってたどられる。
この自己意識的な衝動をできるだけ頻繁に再現させるすべをマインドが学ぶと、私たちはますます経験的な現実に生きるようになる。自己意識的な衝動によって私たちは、おしゃべりな思考から連れ戻されるばかりでなく、経験的な現実への巻き込まれからも連れ戻される。それによって私たちは、周囲に起こっていることに関する姿勢を再調整できる。
自己意識的衝動は私たちを現在の瞬間へと繋げてくれるが、〈無為〉ないし只管打坐(しかんたざ)はまだずっと深い。必要なことは、よく見極め、ゼロ地点へと飛び込むことだ。ゼロ地点では、自己意識的衝動は対象物には向かわず、貴重な停止状態を保持して、自分自身にとどまる。
自己意識的衝動が自分自身を継続性として体験できるとき、意識の根本が目覚める。これこそが〈覚〉Presence だ。
このとき、注意力は、対象物ではなく、自分自身へと向かう。
たえず思考を手放し続け、つねに〈覚〉を「今ここ」に目覚めさせるすべを学ぶことこそ、基本的に私たちの行うことのすべてだ。
適切でしっかりした瞑想の姿勢は、注意力を養う上で非常に重要だ。
最初のうち、マインドがあまりに落ち着かないときには、呼吸に意識を向けることでそれを静める。呼吸に意識を向けることは、経験的時間ないし「現在の瞬間」につながる非常に自然なやりかただ。それはマインドに直接影響を及ぼし、私たちの感情体に非常に大きな癒しと鎮静の効果を持つ。腹にゆっくり呼吸することは、エネルギーのバランスを取り、〈覚〉を安定化させる上で、非常に重要だ。
あまり技法に頼りすぎるのも良くないが、ともあれ、支えなしで坐ることを学ぶ必要がある。〈無為〉の状態で。
覚醒と静寂のバランスを保つことが非常に重要だ。
まず、生き生きとして明るい注意力のスペースの中で、あくまでも覚醒している必要がある。このようにして無意識を溶かしていき、より長く〈覚〉の状態が続くようにする。
その一方、静寂によって覚醒は深まり、無為と溶け合うようになる。そして静寂の中に安らぐことによって、覚醒もまた無努力で自然なものになる。静寂なしの覚醒は、鈍重で受動的なものになり、瞑想の進展を加速させる力を欠いている。
このように、マインドの人為的で落ち着き無いレベルから、〈実在〉の深遠な状態へとシフトするわけだが、そこで実際に何が起こるのかについては、正確に記述するのが非常に難しい。それは単にマインドを沈静化させるわけではない。実際の次元の変化が存在するのだ。
意識の第四次元について語ってみよう。私たちは通常、非常に平板な現実に生きている。そこには深さがない。なぜなら見る者が自分自身に対して存在していないからだ。目撃者である〈覚〉の目覚めによって初めて、私たちの三次元的知覚が、パノラマ的な気づきへと拡張するのだ。
マインドというのは、その動きを永続化させようとする。だからこそ、支えなしで無依拠の状態にとどまるというのは、その習性に反することになる。しかし私たちが修練すれば、マインドはそのより深い層へと拡張し、その動きは次第に収まって静かになっていく。
「マインド」と「無心(ノーマインド)」という言葉が使われると、そこに分離があるかのような感じがある。すると、マインドの見地からは、無心へと到達するプロセス全体が、なかなか理解しづらくなる。つまり、無心を達成するためにマインドを排除しようとしてしまう。それは大きな誤解だ。
まず第一に、無心に到達するのは、マインドを通じて、意識的に行う。第二に、そこに到達するとハッキリわかるのだが、マインドとは私たち自身の〈覚〉の自然な延長だ。
もともとの無心は気づいていない。意識を通じて、私たちは無心に到達できる。つまり、それに意識的になるわけだ。無心を意識するというのはべつに、無心が意識の対象になるということではない。内容物のない意識が、私たちの言う「無心」というものだ。マインドが自分自身の本性へと拡張する。自分の中に具わっていたものに目覚める。まだ完全には現実化してはいないが。
私たちは意識の進化の一部だ ― 意識を具える進化だ。もはやそれは純粋に生物学的・本能的ではない。私たちのエゴ−マインドは、その意志や、知性や、感受性を使って、それ自身を探索している。
瞑想の中でマインドは、「静」という自己の本性に安らぐすべを学ぶ。そして探索によって私たちは、外に現れたマインドとその核心にある本性を意識的につなぐものに目覚めるのだ。
私たちは既に探索のことを語った。ある不可思議な仕方で、私たちの中の〈理解〉する部分は、瞑想のプロセスから絶対的に不可分だ。
探索とは単に、「何々について考える」とか概念化ではない。それは私たちの知性の非常に直感的な部分に属している。
理解が起こるのは、体験ないし「体験であること」と知性的な洞察が直感的にひとつになったときだ。
精神的な探索においては、私たち観念や概念を非常に巧みなやりかたで使う。ちょうど、適用すると同時に、手放すという感じだ。
探索しているとき、私たちは、自分の状態とともにあると同時に、それを見ている。この見ていることの中には、見ている者はいない。またそれは単なる、「無選択の気づき」でもない。そこには理解しようという深遠な欲求がある。
探索においては、理解は到達できない。開示されるのみだ! 理解がそれ自身を現すに任せる。しかしながら、私たちは単に受動的であるわけではない。非常に微妙かつ「感情移入」的な仕方で、私たちの知的感受性は、「知ること」を引き起こさせる。
それは非常に重要だ。というのも、それによって次のことがわかるからだ。すなわち、エゴ−マインドは、その幾層もの深い感受性をもって、無心の次元へとシフトするプロセスに参画している。
私は誰か?
探索について考えながら、私たちはここで少々、最も根本的な問いかけのひとつについて見てみたいと思う。
「私は誰か」という問いは、人間の精神的進化という旅の全体にわたる要(かなめ)だ。この問いを通じて、無智はついに自らを無智と知るに至る。「自分は実際のところ自分が誰なのか知らない」という事実に気づくためには、大いなる精神的な感受性が必要だ。
「私は誰か」という問いによって、人格個性(パーソナリティ)との古い同一化に根元的な疑問符がつけられる。
しかし疑問だけでは十分でない。それを解決しようという欲求が必須だ。見つけたいというこの圧倒的な願望がなければ、闇から外に出ることはできない。
「私は誰か」という問いに対する姿勢にはいろいろある。表面的なレベルでは、たとえば、新たな「似非−精神的」なラベルを持ってきたりする ― 「魂」とか、「光」とか、あるいは、「無我」といった仏教的な概念とか…。そうしてこの問いに答えたと思うわけだ。
しかしそれは非常に幼稚な姿勢だ。というのも、概念のレベルにとどまったままでは、この謎は解けないからだ。
アドヴァイタ・ヴェーダンタの用いる技法はずっと深いものだ。それはまず始めに、自分の真なる姿を次のように仮定する― 自分は「永遠」であり、「常住」であり、「不変」である、と ― 。そして、その基準にあてはまらないものを、頭の中で排除していく。「私は肉体ではない、私はマインドではない ― いったい私は誰だろう。そこに何が残るだろう」。
こうした探索の中には、答えを求めるマインドと、深い信頼とが存在している ― 「自分の求めているものは既にそこにある」と知っているわけだ。
こうして、この探究は今起こっており、今にかかわり、そして最終的に、答えとともに、〈今〉になる。
「私は誰か」という問いの最も深い意味は、更にもっと微妙だ。探索そのものを超えて行く。
答えを見つけようとすると、マインドは動く ― 何らかの方向に向けられる。しかし、私たちの真なるものは、いかなる方向にも見つからない。それは無方向だ。だからこそ、自分自身を何々だとか、どこどこにあるとかいうふうに見つけようとすると、それは既に間違いになる。それはちょうど自分の頭を探そうとするようなもので、どこを見ようが無駄なことだ。探求者こそが、探究されるものだ。
この問いの最も深い目的は、べつにどこかの場所に至るとか、疑いを促すということではなく、私たちの存在の内側に深遠な停止を生み出すことだ。それは私たちの意識のゼロ地点だ。私たちの存在は知っている。真なる自己についての知識は、不可思議にも既に存在している。私たちに必要なことは、停止すること ― その中に停止することだ。
錬成
錬成は〈道〉と不可分であるが、探究の粗大なレベルを超えたところにある。以前に語った通り、ゴールは不可思議なことながら既に修練の段階でもずっとそこにある。にもかかわらず、錬成が始まるのは、ゴールがはっきり認識されたときだ。
自分が誰かわからないかぎり、〈覚〉の状態 State of Presence をはっきり認識しないかぎり、多かれ少なかれ私たちは闇の中を手探りしている。ゴールが最終的に明確になったとき、真の瞑想が始まる。
意識はまだその本質と完璧にはひとつになっていないが、修練はもはや二元的ではなくなる。すなわち、注意を保っているときには、その対象である〈覚〉も自然にそこにある。
錬成と悟りがどのように関わっているかについては様々な見方がある。覚えておくべきことは、悟りという言葉には二つの基本的な意味があるということだ。
ひとつは、マインドの本性の認識であり、底流にある〈覚〉の状態への洞察だ。もうひとつは、錬成を超えた状態だ。
普通私たちが「完全な悟り」と言うとき、それはもはや錬成の届かない境涯を指す。
たとえば禅では、ときどき、終わりのない錬成というような表現に接することがある。禅師の中には、坐禅は一生涯続けるものだと唱える人々がいる。本当にそうなのか。べつに私たちは楽しみで坐禅するのは厭わないが、実際、悟った人は修練を超えているものだ。
中には修練に中毒しているような伝統もある。そうした伝統はどうやら、錬成と最終的な自己了解の状態との関係について適切な理解を欠いているようだ。
私たちがはっきり言いたいことは、「錬成を超えた状態」というのが確かに存在するということだ。
もう一方の極端な立場は、自己の本性を見ることが錬成の最後だとする見方だ。通常、理想主義的で単純な論理に立脚している人々が、この見方を唱える。そうした見方によると、人は真理を見るか否かのどちらかだ。そこには錬成の余地がない。そうした立場はおそらく、修養の心理学的な効用について顧慮していないのではないか。
そうした立場の語るような状況は可能ではあるが、ごくごく稀にしか起こらない。それはすなわち、「突然の悟り、突然の錬成」と呼ばれる。
またこうした立場もある。すなわち、〈道〉に入る前に修養の本質を認識できる人々だ。この場合、錬成とともに〈道〉を始めるわけだ。これを、「突然の悟り、段階的な錬成」と呼ぶ。
しかしほとんどの修行者の場合、自然な流れは、〈道〉に入り、そして、様々な資質を高めることによって意識や錬成の本性を洞察し、最終的に錬成を超えていくということだ。これを名づけて、「段階的な修練 ― 段階的な(あるいは突然の)悟り、段階的な錬成」と呼ぶ。
〈覚〉を認識した後、その先にはまだ長い道のりがある。しかし私たちの修練は、それからますますポジティブになっていく。修練は徐々に非修練になっていく。つまり、錬成が自然に展開していく。
そして本当に只管打坐(無為)に坐ることができるようになる。ついに、思考を超えて、内なる静寂の中に安らぐことができるのだ。
瞑想の中では、意識のレベルをいくつか区別することができる。
〈目撃する意識〉が基盤で、粗大な想念の現れがその表面上に起こる。
その中間に、直感的で創造的な知性の動きとも呼ばれるものがある。
この直感的な知性は、想念の現れと、ダイナミックに関係している。この想念が生じるのは、潜在意識によって、あるいは、周囲に対する反応としてだ。
知性は、その情報を手放すか、あるいはそれに参与するかを決定する。
この直感的な知性はまた、〈目撃する意識〉とも、ダイナミックに関係している。たとえば、それがどのように〈覚〉と関係するかによって、瞑想の中での吸収の度合いが決まってくる。
自分自身のこの部分を、個人的な知性の創造的な中心と呼ぶことができよう。
〈目撃する意識〉あるいは「無思考の気づき」について語るとき、覚えておくべきは、それは確かに現存しているけれども、まったく静止していないということだ。それはひとつの動きであり、沈黙の動きであり、意識それ自体のゆらぎだ。
それに気づくだけでは十分ではない。それと親しむことが必要だ ― 親友であるかのように。
それとともにあることが必要であり、そして、それによって学ぶ。
だからこそ、錬成のあいだじゅうずっと、軽やかに探っていく姿勢が絶対的に必要だ。
この直感的知性は、〈覚〉の質を損なうことなく、〈覚〉に繊細に気づいていることができる。
内なる静寂と、微妙に観察し探ること ― それは見事に共存し、ひとつとなって調和していく。白雲が青空を曇らすわけではなく、また青空が浮雲を邪魔するわけでもない。
いかに瞑想が深くても、自分自身を真に理解しない限り、それで十分とは言えない。自分自身を理解するためには、無為の状態で坐りながら、同時に学ぶことが必要だ。それは矛盾ではない。というのも、もはや知っての通り、瞑想とは単に「考えないこと」ではなく、「考えを超えること」だからだ。
〈覚〉状態は、純粋な〈今〉ではあるが、そこには多くの層がある。〈覚〉は〈今〉という垂直のリアリティーに属している。この〈今〉は「無心」」no-mind とも呼ばれる。しかしこの〈今〉は多次元的だ。
「無心」という観念は、べつに何か静的な状態を示すわけではなく、生き生きとして非常に豊かな意識の様態だ。それは単に「在る」のみならず、「生きている」。
意識は完全に理解されねばならない。自分の庭のように知る必要がある。たとえば田舎にとても気に入った庭があって、余暇はいつもそこで過ごして、手入れをしていれば、その庭のことはよくわかる。いつも変化しているが、そこにあるもの ― 花々や木々は、いつもお馴染みだ。
これこそ意識を理解するということだ。意識が抱擁される。
べつに高い境涯にいなくても、「吸収状態」にはいろいろあることはわかる。それはつまり、たとえ粗大な思考が存在してなくても、意識は自分自身を様々な仕方で体験できるということだ。いろんな「味わい」がある。
活動中のシャープで明晰な気づきから、より深く静寂の層に到達し、徐々に瞑想の中へと入っていき、最後にはトランスのようなサマーディの中ですっかり自分自身と周囲を忘れ去ってしまう。
べつにどの状態が望ましいというわけではない。どれも意識の自然な動きの一部だ。ただそれを把握することは必要だ。
極めて重要なことは、私たちの直感的知性が目撃の質に直接影響するということだ。この知性が決めるわけだ ― 自分が個人的な領域に巻き込まれるが、それとも〈実在〉の中に安らぐか。
知性が外側の現実あるいはマインドに巻き込まれるとき、目撃は背景に受動的に存在するようになる。
知性が外側の現実から退き、そのエネルギーは自然に〈内的状態〉へと落ちていき、目撃は自分の中へとより深く入っていく。
錬成の中では、意識の理解が不可欠だ。しかし、もっと重要なのが、自分自身をしっかりと〈覚〉状態の中に安定化させることだ。
ゴールの存在をいつも思い起こし、最終的にそれが永続的になるよう心がける必要がある。
私たちの努力は徐々に、自然で自発的な無努力へと溶けいっていく。錬成は無錬成へと変わり、ゴールであったものが道を超越する。
錬成を超えて
道とゴールはついにひとつになった。目撃は無努力となる。もはや修練を高める必要はない。
しかし、先にも言ったとおり、パーソナリティと〈覚〉とのダイナミックな関係はそのままだ。それは生の自然な一部だ。
人生を通して、個人的な次元への関与と内的な自由への安らぎとのバランスを再構築していくことが、私たちの直面すべき絶えざる挑戦だ。
このバランスは、目覚めたからといって自動的に手に入るものではない。そこが一部の教えと違うところだ。精神性と日常性は最終的にひとつになるが、それはまた同時に別個でもある。私たちはこの非常な逆説を生きる必要がある。なぜならそれこそが〈現実〉だからだ。
錬成を越えるということは、再び人間になるということだ。現実の本性についての精神的な洞察がどうあれ、人間であることが私たちの宿命だ。
錬成を完了することによって、ゴールは忘れられる。ゴールが忘れられると、自然さに到達する。自然さに到達すると、私たちの感受性と生とはひとつになる。
これは精神的探究の終わりではない。まだ〈絶対〉は到達されていない。錬成は意識を超えていくことができない。なぜならそれはまさにこの意識に属しているからだ。
意識の本性の理解は、意識の中で起こる。しかし、それを超えたいという願望は、〈究極〉そのものからやってくる。
〈究極〉というのは、純粋な感受性だ。それは私たちを呼び、そして、私たちの願望に対して、〈恩寵〉を通じて応える。
もはや何の錬成もない。ただ明け渡しがあるのみだ。意識の中心の明け渡しは、意識が〈恩寵〉と出会わない限り起こらない。
何を明け渡すべきか私たちは知っているが、何に対してどのように明け渡すかは知らない。
この「知らない」ことによって、明け渡しは自分自身を焼き尽くし、〈自由〉の中へと爆発する。
〈恩寵〉というほか、言葉は見つからない。
〈不生〉へ
これは〈究極的な主観〉に向かっての〈意識〉の旅だ。〈究極的な主観〉とは、そこからすべてが生じ、そこへ向かってすべてが戻っていくところだ。
その旅は、宇宙が宇宙自身へと向かう旅であり、そして宇宙自身を通じて〈超越〉へと向かう旅だ。
〈在るものすべて〉は、ほかでもなく、〈究極的な主観〉の表現であり、〈究極的な主観〉が客観化を通して自分自身を体験するのだ。
このことを理解する必要がある。すなわち、知覚の領域に生起するものすべて ― 知覚され、体験され、体験可能なものすべて ― は、ほかでもなく、〈究極的な主観〉の一表現だということだ。
誤解しないようにしよう。私たちの精神的な旅路は、体験を超えたところに導いてくれる。それはそれ自身、究極の体験だ。
私たちなるものは、ほかでもなく、存在が自分自身を顕在化したものとして意識し、そして、自分自身の不在に目覚め、それを自分の原初のアイデンティティとすることだ。
私たち、つまり顕在化したものは、本質的に、永久に非顕在的なものだ。
意識というのは道具であり、それによって非顕在が自分自身を体験へと翻訳する。
意識とは、それ自体、顕在化したリアリティだ。意識とは、顕在が顕在として認識される道だが、それと同時に、非顕在が到達され認識されうる唯一の道具だ。
意識の本質とは、内容物のない空っぽな意識自体だ。私たちはそれを、〈覚〉の状態、あるいは純粋意識と呼ぶ。まさにその地点で、〈究極的主観〉が自分自身を感じ始める。ここが〈源泉〉と顕在との橋だ。〈究極〉はそれに先行する。
非顕在が覚知される前に、意識の本質が覚知される必要がある。この覚知に到達しようとしているものは何か。それは、意識の活動的・自己意識的中心だ。それは私たちの場合、パーソナリティあるいはエゴとして認識される。
エゴとは私たちの知性の自己意識的な動きであり、それなしでは精神的探究も悟りもない。
パーソナリティとはリアリティの顕在化した側面だ。そもそもそれは外的世界の探究に向けられている。しかしそれが内側に向けられると、パーソナリティは、外側の現実と顕在の源泉との間の意識的な橋渡しとなることができる。これが〈目覚め〉と呼ばれるものだ。
〈覚〉と〈絶対〉
〈覚〉とはほかでもなく、顕在の目覚めた本質だ。顕在が無意識的であるとき、それはすっかり、その見かけの有り様に閉じこめられている。つまり、自分自身の客体化にまったく同一化している。
〈覚〉は顕在化しているが、顕在の中にはない。それは空でもなければ、形でもなく、その中間的なものだ。
意識は三つの方向を取ることができる。顕在に向かうと、それは生となる。自分自身に向かうと、それは〈覚〉となる。そして、顕在と自分自身に同時に向かうと、それは〈目撃〉となる。
そのほかに、無方向の状態もある。それは〈絶対〉の中に在るということだ。
想念の観点から言うと、稼働している知性が意識の中心だ(エゴという幻想)。稼働している知性の観点から言うと、〈覚〉が中心だ。
この〈覚〉は自分自身を、存在しているという感覚として、非二元的な気づきとして、知っている。
意識がパーソナリティから自分自身の本性へとシフトするとき、自分自身の中に停止する。この停止の中で、自分を自分として知る。
意識が生じる〈実在〉の次元、それが〈絶対〉と呼ばれる。
〈絶対〉は決して現れない。それは現れることができない。なぜなら、いったい誰に対して自分自身を現すのか。見る者は見られるものに先行する。
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