Azizとの出会い

 

 by Parva 

 

 

始めに                      


 私は Swami Advait Parvaという。
 1986年からOshoの弟子をやっていた。
 何の疑いもなく弟子になり、何の疑いもなく続けていた。
 ほかの師につくというようなことも考えず、ただ淡々と弟子をやっていた。
 実際、90年のOsho 遷化後、多くの弟子たちは他の師のもとへと散っていったが、それを横目に見つつ、さして気に留めることもなく、Oshoの弟子をやっていた。
 Osho説法集を何巻か翻訳・上梓し、Oshoセレブレーション壇上で華麗に司会役を務め、ご覧のHPの前身「Oshoごっこ」を通じてOsho紹介に挺身していたものだ。そうしたものを総じて「Oshoワーク」と呼んでいた。
 ほとんど「瞑想」というものをした記憶がないが、それはそれで自分にとって重要なワークであったに相違ない。


 

予兆                       


 私はHPを二つ三つ運営していたが、開設後三年たった99年、著作権・肖像権関連のトラブルが立て続けに起こった。こんなどーでもいいようなHPだが、それなりの社会的影響があるらしい。

 とりわけオレに深刻な影響を与えたのは、ほかでもないOshoコミューンからのクレームだった。
 そりゃそうだろう、そもそもHP運営の動機のひとつがOshoコミューンの繁栄だったのに、その当の相手から「そんなことはやめろ、さもなきゃ訴訟だ」みたいなことを言われたんだから。

 それでさしものオレも、やっと目が覚めたわけだ。ああ、オレはきっとロクでもないことをしていたんだなァと。
 で、HP編集からほとんど手を引いた。

 そして年も改まり2000年正月。年中行事のプーナ詣でへと旅立った。
 プーナ詣でとは、オレにとって「遊び」を意味していた。しかしその年に関しては、「よし瞑想しよう」という殊勝な心がけであったのだ。
 今から思うと、こうした出来事も、「もう私の宣伝はいいから、もっと自分のことをおやんなさい」というOshoのお達しだったのかもしれない。


 

プーナにて                    


 瞑想モードに切り替わったつもりだったが、長年つちかった「お祭り男」イメージはそう容易には払拭されなかったらしい。
 コミューンに足を踏み入れたとたん、お声がかかる。「ぱるば、エイサー指導してくんない」
 やなこった。オレは瞑想しに来たんだ。
 「まーそー言わずに。毎日夕方練習してるから見においで」
 っていうわけで見に行ったのが運の尽き。数日後には、プーナエイサー隊の面々にチャンプルーズ直伝のエイサーを熱血指導しているオレの姿があった。(朕思ふにプーナエイサー隊のほとんどがMaだったというのもこの道草の一因であったな)

 ところで日本を発つ前、プーナ発信のHPに、ある怪文書が現れた。それは先に渡プーしていた道友キヨタカの手になるものであった。題して『プーナ修行体験記』。これはリーラスペースHPからもリンクされているので見た人も多いだろう。
 何でもキヨタカ氏、ポーランド出身のAzizなる怪人物に瞑想指導を受けた模様。よほど感銘を受けたらしい。掲載の写真にも当時の尋常ならざる昂奮状態がうかがえる。文中にはオレまで登場して、K1対決でAzizに不戦敗しており、まことに怪しからん限りだ。

 コミューンではOsho命日の一月十九日が、一年最大の祭であった。おりからその年はOsho十回。コミューンはそれ向けて一年前から最大規模の行事を企画していた。
 その目玉となるのが、十九日当夜の『ウパニシャッド&チャンプルーズ』ブッダホール公演だった。私のエイサー指導もその一環だった。プーナエイサー隊がそのステージで一緒に踊るのである。

 その本番数日前のこと。キヨタカが私のソデをしきりに引っ張るのである。
 「ねェ、今日の夕方、Azizのサットサンあるんだけど、一緒に行かない?」
 まあ私も瞑想のためにプーナに来たわけだからして、瞑想会に行くのは苦しゅうない。しかしながら、ときあたかも、大事なイベントを数日後にひかえ練習の仕上げに余念なきときである。日も暮れるころにはもう、怪人物のサットサンのことなどすっかり忘れてしまうのであった。
 そんなことが続いたので、キヨタカも諦めたようだ。「やっぱり縁がないんだネ」
 そして十九日、Oshoセレブレーションの夜、喜納昌吉&チャンプルーズ演奏の下、プーナエイサー隊は華々しきデビューを飾るのであった。(そのステージを見た某インド人プロモーターからギャラ付きで首都デリー招聘の話も出たほどだった)

 このエイサー隊は二年後の今日に至るまでプーナで活動を続けているのだが、私はといえば、この初舞台以降、急速に関心が冷めてしまう。
 渡プー本来の目的へと、指向がガラリとシフト。
 コミューンには通っていたが、友人や知り合い連中から話しかけられぬよう、隠れ蓑をつけて行動していた。
 Oshoコミューンには便利な隠れ蓑がある。「サイレンス・バッジ」というものだ。それをつけていると、人々はあなたをいっさい無視してくれる。あたかも透明人間のごとくだ。もちろんサイレンスであるからして、あなたもおしゃべりなんかに興じていてはいけない。ひたすら自己の内側へと向かうわけだ。

 そんなある日、キヨタカとそのパートナー・ヨガビジャが、ゴアに向かうと言う。
 Azizがゴアへと舞台を移し、サットサンを行うのだそうだ。
 ゴアというと私の場合、不良サニヤシンのたむろする場所という印象があった。
 しかし必ずしもそうではないらしい。当時は既に、サットサンのメッカのごとくになっていた。何人ものマスター(導師)たちが、それぞれのビーチで思い思いにサットサンを展開していた。
 サットサンとは「真理の集い」、ひらたく言えばマスターの主宰する瞑想会というところだろうか。

 Oshoコミューンに「マスター」はいない。マスターと称したとたん、出入り禁止になる。マスターはOshoひとりで十分だからだ。
 それはそれでひとつの行き方だろう。実際、肉体を持ったマスターからの指導を必要としない人には、おそらくこれ以上の場所もあるまい。
 しかしオレの場合はそうじゃなかったようだ。

 そこで決然、キヨタカたちと同道し、ゴアに行くことにした。
 まずはAzizに会って、それで不足なら別のマスターのもとへ行こう。


 

ゴアへ                      


 プーナからゴアへは通常、夜行バスで行く。
 飛行機もあるのだが、ボンベイ経由となり、かなり割高だ。(ゴア→プーナは直行便がある。)
 バスはだいたい十二時間の旅。寝台バスだ。ただし、ベッドがかなり狭いから、懐具合に余裕のある場合、ひとりでダブルベッドを占有して行くと楽だ。
 翌朝早く、ゴア北部の中心都市マプサに到着。タクシーに乗って、目指すアランボール・ビーチへと向かう。

 朝夕セーターの必要な冬のプーナとは違い、アラビア海に面したここゴアは常夏の地。あちこちに椰子の木が群をなしている。
 つい40年前までポルトガル領だったこともあり、他のインド諸地域とは文化的に一線を画している。なんとなく寛容なコスモポリタン的雰囲気がある。
 ゴアのビーチと一口にいっても、南北数十キロの海岸線に沿って、幾十もの有名無名のビーチが点在している。

 アランボール・ビーチは、そうしたビーチの中でも最北端。正確に言うと、北から二番目だ。アンジュナとかカンドリムといったメジャーなビーチから比べると、ぐっと素朴な趣がある。
 道中、とある河口にさしかかると、タクシーごと渡し船に乗る。シンプルなポンポン船だ。向こう岸に渡ると、やがて美しいインドの田舎が広がる。
 カシューナッツの畑や、バリ島を思わせる集落をいくつか抜け、やがてアランボールの村に着く。半農半漁の小さな村だ。 (3/28記)


 

アジが崎                     


 キヨタカたちとともにビーチに出て、とっつきのシャーク(飯屋)で朝食を食べる。
 旅先ではまず宿の確保が先決だ。アランボールのような田舎ビーチでは、前もって電話予約というのもままならぬ。
 Azizがキヨタカたちのために部屋を取っておいてくれるという話だったので、とりあえずシャークに荷物を預けて、Azizに会いに行くことにした。

 ビーチの北側に、岩山がひとつ、海に突き出ている。
 一般にこれはcliffと呼ばれている。私はAzizにちなんで、アジが崎と呼ぶ。ヒンドゥー教の祠などがあるこの岩山は、ひとつのエネルギー・スポットだと言われている。
 アジが崎の斜面には椰子がたくさん植えられ、その木陰に、コテージが点在している。コテージと言っても、日本でいえば物置小屋みたいなシンプルなものだ。それでも眼下にアラビア海を見下ろすロケーションゆえ、人気が高く、村中の宿より倍以上の価格設定だ。

 Azizはその岩山の、一番上あたりに部屋を取っている。
 椰子以外の植生に乏しい岩山には、ちょうど人ひとり通れるくらいの小径が縦横に走っている。おそらく元々は山羊や牛などによる獣道だったのだろう。
 キヨタカたちとともにそんな小径をたどって、Azizの住まいに向かう。もとより電話などないから、在室しているかどうかも定かでない。

 急峻な坂道を登っていくと、「あっ、Azizだ!」とキヨタカの声。
 見ると、長身の人物がひとり、上からやってくる。白い衣を着て、坊主頭だ。
 キヨタカと挨拶を交わすその姿は、ごく普通の青年だ。
 ふーん、これがあのマスターか。
 キヨタカが私のことを紹介すると、「こんにちは」と愛想良く声をかけてくる。

 どうやらアジが崎に空き部屋はないらしい。
 Azizのサットサンは夕方からなので、とにかくその前までに身を落ち着かせよう。


 

God's Gift                     


 アランボールにいわゆるホテルのようなものはない。宿泊施設のほとんどは、掘っ建て小屋か、民泊に毛の生えたようなものだ。
 竹や椰子の葉で作ったバンブー・ハットなぞもあって、これがワイルドでエキゾチックなせいか、けっこう人気がある。
 結局私たちは、アジが崎から二キロほど離れた集落の中に宿を見つけた。

 「God's Gift」という名のこの宿、素朴なキリスト教徒の漁師一家が経営していた。
 五部屋ほどある新築の建物。ガラーンとした部屋の中には、ベッドが二つあるばかり。
 ひとつだけある窓には、しかし濃色のセロファンが窓ガラスいっぱい張られていて、ほとんど光が入って来ない。暑い夏のための工夫だろう。(ただ、シーズンオフの夏に宿泊客が来るのだろうか)
 扉の建て付けの悪さは、インドでお馴染みの造作だ。

 窓の外には大きな共同井戸が掘られていて、隣近所の人々が水を汲みに来たり、洗濯をしたり。
 その周囲を、豚と犬どもが追っかけっこをしている。インドでは何でも放し飼いだ。
 インドの豚は、先祖の猪に近いのだろう、体毛が長い。その豚に人糞を食わすのが、ゴア式のトイレだ。
 もちろんこのゲストハウスは外人向けの新築だからして、トイレも水洗になっている。(ちょっと残念!?)
 私たちは部屋でしばし休んで、午後四時十五分から始まるサットサンに備えることにした。


 

初サットサン                     


 ゲストハウスからアジが崎までは、二キロほど浜辺を歩いていく。
 広々とした砂浜だから、歩くのもすこぶる気持ちいい。
 元来が漁村なので、浜辺には何艘もの漁船が浜上げされて並んでいる。よく南洋の島々で見かける、アウトリガーのシンプルな木造舟だ。しかしもはや櫂でこぐ人はいないらしい。YAMAHAの船外機なぞをつけて動力にしている。

 サットサンの会場はAziz庵の屋上だということだ。
 キヨタカの先導で岩山の小径をだどる。けっこう険しい道だ。
 Aziz庵はアジが崎の中腹あたり。コテージ群の中では一番上に位置している。
 そうだなあ、四畳半くらいの一間にバスルームがついている。そんな部屋が二つあって一コテージ。
 ということは、屋上は十二畳くらいか。
 周囲に植えられた椰子の木がそこここに影を落とし、西側はるかにインド洋を望む、絵に描いたようなロケーション。
 コンクリートの屋上には、クッションやら座椅子やらが無造作に幾つか並べてある。西洋人が既に何人か来て座っている。
 私たちも場所を選んでそれぞれ座る。

 やがてAzizが現れ、半跏に足を組んで坐り、何事か語る。その後はずっと黙したままだ。
 私たちもまた黙して坐る。
 しかしだ、こちとら夜行バスで半日揺られてきた身。やがてどーしよーもない眠気に襲われる。
 永劫にわたって続くかと思われた睡魔との戦いが終了すると、今度は質疑応答の時間になる。
 陽は既に傾き、アラビア海の水平線上から、横向きに黄色の光線をなげかけてくる。
 夕方になると強まる海風が心地良い。
 ただ、風音のおかげで、質問者の問いがよく聞き取れない。
 また、Azizの答えも、これは風上から来るので聞こえるのであるが、明瞭な英語の発音にもかかわらず、何を言っているのかよくわからない。不慣れな言葉が頻出するからである。

 そんなこんなで、初サットサンの印象はイマイチだった。わけもわからずさんざん坐らされて、ちょっと閉口という感じ。
 で、Aziz庵からの道を下りながら思ったものだ。
 近くのコテージでサットサンをやってる別のマスターがいるから明日はそこへ行こう。それからほかのビーチへ移ろう。サットサン銀座のカンドリム・ビーチあたりへ。


 

Aziz庵の中にて                     


 ところが、翌日の夕方。またもやAziz庵の屋上に坐っている自分を発見。
 おそらくは一晩寝て元気が出たのだろう。わけはわからないながらも、もう一度坐ってみようと思ったわけだ。
 そもそも私はサニヤシンになって十ン年。坐るのがまったく不得手で、まともに坐った記憶がない。

 その日はなかなかいい感じであった。
 それで、しばらくAzizのもとに留まろうかと思う。
 ついでに個人セッションも申し込む。
 当時はあまり希望者も多くなかったので、わりとすぐに予約が取れたように記憶する。

 個人セッションは午前中から昼過ぎにかけて、Aziz庵で行われる。
 庵まで赴いて、外から「Aziz!」と叫ぶ。
 日本人はえてして、「アジズー!」とか言いがちであるが、正確な発音は「アズィ!」である。この「ズィ」部分に思い切りストレスを置き、最後の「」はちょっと添えるという感じ。
 よくわかんない人は、Azizの秘書彼女 Sita の言動に注目すべし。日に二十回は「Aziz!」と叫んでいる。

 そういうわけで、「Aziz!」と叫ぶと、ひと呼吸おいて、中からAzizが現れる。
 開いた戸口から香の匂いがただよってくる。甘みの強いインドの香だ。
 招じられて中に入ると、室内は非常に狭い。
 ベッドと椅子がふたつ。そして小さなテーブルだけだ。
 
 椅子に座ってAzizと相対する。
 マスターなる人に相対するというのはこれが初めてなので、どう身を処するべきかちょっと困る。
 教えを請うわけだから、頭を低うするのが常道だろうが、どのくらい低くしたらいいのかよくわからん。 
 それに正直言って、自分より年少の人に教えを請うってのは、ちょっと苦手かも。

 Azizのワークは、まず State of Presence から始まる。
 個人セッションの席で、私のバックグラウンドを尋ねた後、やおらAzizは State of Presence を伝授する。
 たちまち、眉間、第三の眼あたりに、強い圧迫感を覚える。
 これが State of Presence なんだそうだ。


 

State of Presence                      


 正確に言うと、その圧迫感は、 State of Presence (以下SP)そのものではなく、SPに伴う感覚なのであろう。
 その感覚を指標として使うといい。

 Azizのもとに参ずるとまずSP修行を与えられるので、ややもするとAziz=SPと思われがちだ。
 しかし、Azizに言わしむると、SPとはほんの序の口に過ぎない。そこを通過して初めて、精神的進化の限りない可能性が開けるのだという。

 SPとは頭の中における気づきの中心。たとえて言うならば、マインドという大海原の中の足場、橋頭堡みたいなもの。
 これがないと、一生マインドの波濤に弄ばれ、流れ、たゆたい、どこへも行き着かない。
 堅固な足場があってこそ、そこをしっかと踏んまえて、大いなる天空を望むこともできるのである。

 拙訳『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』の中でもOshoは、「身体の中でも第三の眼はいちばん人の注意を引きつけるので、そこに集中するのが注意力を養成するいちばんの道だ」、みたいなことを言っている。
 そしてOshoによると、この『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』に盛られている112の瞑想技法は、すべて観照のためにあるのだそうだ。SPのワークもまたそれに類するものであろう。

 そのSPを二六時中保つように言われる。眠っているときを除いてだ。
 顔を合わせるたびに、「何パーセント保ってる?」とAzizに聞かれる。
 つまり、起きている間、時間的にどのくらいの割合でSPを保っているかというわけだ。
 まあ、そんなこと聞かれても困るんだが、初心者だったら、たとえば、「20パーセントくらい」と自己申告する。
 するとAzizは渋い顔をして、「たったの20パーセント!?」と言う。

 多少とも成長していないと体裁悪いから、聞かれるたびに、10パーセント増くらいで申告するわけ。
 むろん道はそんなに平坦なものではない。
 しかし、毎回聞かれるものだから、油断はできない。
 少なくとも、自分が平生どのくらい保っていられるか、チェックを怠れないわけだ。


 

瞑想的ビーチライフ                      


 ビーチに遊び戯れるトップレス女たちには目もくれず、ひたすらSP修行に勤しむ日々。
 キヨタカはヨガビジャと楽しくハネムーンしていたが、こちとら独り身のビーチ生活。
 それで一度、サットサンの席上、Azizに聞いてみた;
 「半裸の女たちの群れなし戯れるビーチで、どうやって修行したらいいでしょう?」
 その答えは忘れてしまったが、おそらく、Oshoサニヤシンである私にとって、それほど驚くべきものでもなかったのだろう。
 セックスと瞑想は背馳矛盾するものではない、というほどのものだったかと思う。

 アジが崎に小さな空き部屋が出たので、それを借りる。
 ハンモックを買ってきて、軒下に吊し、それに寝そべって、『Enlightenment beyond Traditions』を読む。
 Azizに勧められたHoumanとの共著だ。
 これは本HP上でも最初の数ページを翻訳紹介しているので、ご覧になった方もあろう。これがよくわかんないわけだ。
 日本語でもわかんないんだから、英語じゃなおさらだ。

 Azizに「わかんない」と言ったら、「わかんなくて当然。何回も読んで、そのうちわかってくる」…のだそうだ。
 だいたいオレは、この本があまり気に入らなかった。
 Azizは禅の人かと思っていたので、その本も当然、無とか空とか祖師西来とか趙州無字とか、そんなものだと思っていた。
 ところが本書はのっけから、「恩寵」とか「魂」だ。
 なんだこれは。
 キリスト教じゃあるまいし。

 というわけで、五分読んでは二十分昼寝という感じ。
 空を見上げると、浜風に乗ってパラグライダーがふわふわと空を舞う。なんとご苦労なこった、あーゆー道具立てなしでふわふわ空を舞うのが瞑想の真髄であるぞよ…
 などと夢うつつに勝手な優越感にひたりつつ、椰子の木陰にハンモックを揺する。のんきなアジが崎の昼下がりであった。



 

只管打坐                     


 先にも述べたが、私はいわゆる瞑想、すなわち黙って坐るのが不得意だった。
 プーナのブッダホールでも、五分坐っていると飽きてきた。
 ところが、Azizのサットサンでは、毎日一時間は坐らされる。(その後、一時間ほど質疑応答がある)
 Azizが見事に坐っているので、生徒たちも思わず坐ってしまうのだろう。

 Azizと坐っていて、ほどなく気づいたことがある。
 坐っていると、突如、気持ちよくなるのだ。
 これはAziz用語で言うと、beingに落ちて行ったということだろう。
 腹に落ちるという感じだが、Azizいわく、beingと腹とは同義ではない。beingは腹を入口として、体を超えて拡がって行くのだという。

 ビーチにいてほかにやることもないので、朝から晩まで坐っていたような気がする。SPについては日常活動の中でも鍛錬できるが、beingを深めるにはまずは坐る以外ないようだ。
 Azizは夜中に起きて坐ることも奨励したので、目覚ましをかけ、夜中の一時頃に起きだして、数十分坐ったものだ。夜中に突然起きると通常のマインドがあまり機能しないので、効果もまた格別なのだという。
 ある晩などはあまりに深く入って、オレは悟ったのか!?とか思ったものだ。で、翌朝、個人セッションでそのことをAzizに話したら、それは魂がキミの可能性を垣間見せてくれたのだ、と言われた。確かにその通りだったみたいで、そうした体験は長くは続かなかった。

 ゴアに来て一週間ほどたつころ、リトリートの話がもちあがるようになった。
 リトリートとは聞き慣れない言葉だが、要するに、禅の攝心のような泊まり込みの瞑想会らしい。
 そういえばキヨタカもふた月ほど前、そのようなものに参加していた。なんでもたいへん効果のあるプログラムのようで、Azizからも参加を勧められる。キヨタカもできたら再び参加したいようだ。
 しかし次のリトリート予定日は三月に入ってからの五日間で、そうすると私やキヨタカの帰国予定日にかかってしまう。
 そこでキヨタカと図って、リトリートの日時をずらしてもらうよう、Azizと談判することにした。
 ある日のサットサン後、キヨタカと二人でそのことをAzizに相談すると、わりあい簡単に考慮してもらえた。

 

南国ゴアを後にして                     


 2000年2月16日、私たちはタクシーの中にいた。
 私たちというのは、キヨタカと、そのパートナー・ヨガビジャ、そして私。
 行き先はゴア空港だ。
 12日間にわたるゴア滞在を終え、私とキヨタカはプーナへと向かい、そしてヨガビジャはムンバイ経由で帰国の途に就くのである。
 思えば、南国ゴアの椰子の葉陰に展開された、驚くべき12日間だった。

 こうした展開は、予想外であり、また予想通りだったと言えよう。
 瞑想しようと思ってゴアに赴き、実際、瞑想漬けだったわけだから、その点については予想通り。
 ただ、予想ではサットサンのメッカ・カンドリムビーチあたりに流れつくはずだったが、最初のアランボールで落ち着いてしまった。
 ま、瞑想させてくれるという点では、Azizの右に出る教師もおるまい。

 ゴアでサットサンを開いている数多のマスターたちは、おそらくそのほどんどがいわゆる「アドヴァイタ系」であろう。すなわち「キミたちはそのまんまでOK、何もいらない、何もしなくていい」という感じ。
 こうした「アドヴァイタ系」メッセージは、たしかに、ひとつの真理には違いあるまい。
 しかし、あまりにシンプル過ぎて、時と人を選ぶように思われる。決して、いつでも誰にでも役立つ教えではあるまい。
 少なくとも当時のオレには無用であった。何かをする必要があったのだ。すなわち瞑想を。
 だからAzizこそが、そのときの私にとって、ふさわしい師であったと言えよう。

 Azizは私たちのために、リトリート予定を一週間早めてくれた。
 会場はプーナ郊外のミスティックビレッジというところだ。
 そこで私たちは一足先にプーナに帰り、リトリートにそなえることにした。   


 

玩具のいろいろ                     


 プーナで一週間ほど過ごしただろうか。
 Oshoコミューンにも出入りしたが、あそこはSP修行になかなか好適な場所だった。
 カンティーンで食事をしながら、飾られているOshoの写真を見たりすると、知らず知らず覚醒が高まっていく…。
 ただ最近はそうしたOshoの写真もほとんど撤去され、少々さみしいことである。

 Oshoコミューンと並んでよく出入りしたのが、宝飾屋だった。
 コミューン界隈には貴石を売るショップがいくつもある。
 元来が鉱物好きなので、そうした店は楽しい。ただ、あまり所有欲がないので、買うことはめったになかった。
 でもこのときは違った。あるものが欲しかったのだ。

 どんな遊びにも玩具というものがある。
 そうした玩具をそろえるというのも、ひとつの楽しみなわけだ。
 ところが、Azizごっこの場合、ほとんど何も必要ない。
 そこで生徒たちが注目したのが、たとえば、石だったりする。
 Azizの身辺にはいろんな石がある。
 たとえば、首にかける数珠だ。

 Azizはゴアで、きれいなラピスの数珠をしていた。
 ラピスは私の好きな石でもあるので、その意味を尋ねてみると、覚醒を促進させるという。
 それはオレにとって重要だ! ってわけで、ぜひ自分も入手しようと思った。
 で、プーナの石屋を回ったのだが、そう簡単には見つからない。というのも、同じサイズのラピス玉を108個そろえるのはなかなか難しいからだ。ラピスのネックレスならいくらでもあるが、ネックレスの場合、石の大きさが前側と後ろ側ではだいぶ違う。
 しかしどうしてもラピスの数珠をしてリトリートに出たかったから、知り合いの石屋をせかして、どうにか石を探してもらった。
 Aziz著『Human Buddha』137ページで私がしているのが、その数珠だ。

 それからAzizが坐禅中いつも両手に握ったり、膝横にまろばせていたのが、水晶球だった。
 これについても質問すると、それはひとつの友であり、水晶は水晶として進化する、みたいな答えだった。
 そいつはオレにも必要だ!ってわけで、石屋を回ってみるが、あんまりいいのがない。
 翌年の冬もプーナで探したが、やはりピンとくるのがない。
 去年初夏、やっと東京でしかるべきものに出会った。ニューエージ系にはよく知られた原宿のショップのこと。ただ、ここも一度では見つからず、希望を伝えておいたところ、一週間ほどして店主から連絡があった。山梨で磨いたばかりだという、ブラジルもの水晶だった。
 Azizもみんなに水晶のことを質問されるので、ちょっと辟易したのだろう。去年あたりの質疑応答では、「生徒たちがみんな持っているので私もマネしたのだ」とか答えていた。

 あと、シヴァ神像、香、ロウソク、セージなど玩具にはいろいろあるが、それについてはまたの機会にしよう。


 

初のリトリート                     


 2000年初頭に行われたリトリートは四泊五日。
 プーナからおんぼろバスを仕立て、Azizともども、みんなで出かける。
 場所はプーナから車で一時間ほど離れたミスティック・ビレッジというところだった。
 とあるインド人サニヤシンが田園地帯の真っただなかに造った施設で、広さ2ヘクタールほど。
 古い館を中心に、幾つかの簡素な小屋や、半野外の食堂などが建っている。

 Azizのリトリートは、当時、「Zen-Advaita Retreat」と呼ばれた。
 アドヴァイタとは、私もよく知らないのだが、ラマナ・マハリシに源を発する「恩寵の道」らしい。
 (ただしラマナ自身は瞑想の修養を重視していたということだ)
 禅は言うまでもなく、まずは修養だ。
 だから Zen-Advaita とは、修養+恩寵ということだろうか。

 形式としては禅の攝心(せっしん)に倣ったものであろう。
 期間中は一切無言。他人とは、目を合わせることも、挨拶することもなし。
 この無言というのは大いに気に入った。なにより、他人と顔を合わせても挨拶しなくていいというのが、便利でいい。

 一日四度、ホールで坐禅を組む。
 日によっては夜中の一時に起床し、ホールでしばらく坐る。都合、一日八時間ほど坐っていただろうか。
 参加者は十数名。うち五人が日本人だった。
 そのときのリトリートの様子は、『Human Buddha』の10頁と67頁に写真が掲載されている。

 坐禅の形についてはあまりウルサイことは言われない。
 ただ、「脚が多少痛んでもじっとしてなさい」と言われる。
 坐り慣れていない私にとって一時間坐り続けるというのはちょっと難儀なところもあったが、それでも五日間、なんとかやり通す。
 やはりAzizも言う通り、リトリートというのは効果のあるものらしい。
 みなさんも一度、機会あったら参加してみるといい。 


 

日本への道                     


 道友キヨタカは、おそらく日本でも指折りの瞑想オーガナイザーである。
 瞑想オーガナイザーというのは、瞑想リーダーを招聘し瞑想グループを組織主催する人だ。
 自らの悟りをも後回しにし、ひたすら他人の覚醒のために骨を折るという、余人にはなかなかマネのできない菩薩行である。
 彼はこうしたオーガナイザー業をもう十年ほどもなりわいとしている。

 どんな業種でもそうだが、自分でまず惚れない限り、人様にモノは売れない。
 ごく当たり前の話である。
 このキヨタカ、Azizにぞっこん惚れ込んでいた。
 で、当然のことながら、日本に呼んでみたいと思ったわけである。
 ただ、少し心配もあった。
 こんなふうにただ坐り、語るだけの瞑想リーダーに、はたして人が集まるだろうか…。

 リトリートの五日目が終了し、私たちはプーナに戻る。
 プーナではシャムダス邸を定宿にしていた。コミューン裏手にある屋敷の一角だ。
 その夜はAzizもそこに宿を取る。
 リトリート明けの打ち上げという感じで、Azizともども近くの野外レストランにでかけ、ビールなどを開ける。
 その席でキヨタカはAzizに持ちかける。
 近いうちに日本に来てもらえないだろうか…どのような次第になるかはわからぬが、できるだけのことはするので。
 Azizもそれを承諾するのであった。

 キヨタカはあまり遠慮というものを知らないので、私などちょっと赤面するのである。
 リーラスペースHPに紹介されている以下の有名な下りも、この席で交わされたものだ。

一緒に食事をしながら「日本人のガールフレンドは欲しい?紹介するよ!」とけしかけると、ビールを飲みなが「Why,Why not(い、いいね)」と多少ドモリながらシャイに答える…


 ともあれ、その翌々日。キヨタカと私は日本に向け、プーナを後にするのであった。     


 

アンチャン vs マスター                    


 これより前、ゴアで最後の個人セッションを受けたときのこと。
 しばらくはAzizと個人的に語ることもないと思ったので、日本に帰ってからの修行について尋ねてみた。
 するとAzizは、日々のSP修行のほかに、どこか禅寺の攝心に参加したらいい、と語る。
 かつて日本の禅寺で修行していたAzizいわく、「禅を過小評価してはいけない」。
 そっかぁ…禅なぁ。
 そういえば、我が師Oshoも最晩年の一年間は、禅のことばかり話していたなぁ。
 
 ただAzizは臨済系の公案禅というものをあまり評価していなかった。
 寺に行くなら只管打坐を旨とする曹洞系がいいだろうとのことだった。

 ところで、さきほど「我が師Osho」と言ったけれども、さて、いったい、Azizは私にとってどのような存在なのだろう。
 Oshoは「master=導師」という位置にあった。そして私はその「disciple=弟子」であった。
 残念ながら私の馳せ参じたときには既に数十万もの先客がいたので、Oshoと直に話すということは叶わなかったが、それでもいちおう「弟子」ということになっている。
 仏弟子という言葉もあるごとく、たとえ数千年の時空を隔てていたとしても、師弟関係は存在しうるのである。
 (でもやっぱり、直にやりとりしたいもんだ)

 Azizの場合、やっていることはまさしくmaster 的ワークなのだが、自分のことはmasterとは呼ばず、teacherと呼ぶ。
 そして私たちは、discipleではなくて、student=生徒だ。
 この違いはいったい何か。
 確かに日常Azizと接していると、なんというか、どこかのアンチャンみたいだ。いつもつまんない冗談を言うし、けつまずいたり、ドモったり、およそmasterという感じからは程遠い。
 しかしいったん高座に登ると、これが一変して堂々たるマスターぶりを示す。洞山録じゃないが、「何を聞いても答えられぬということはない」状態になる。
 このような「あんちゃんモード」と「マスターモード」の格差が、Azizのおもしろいところである。

 Oshoも晩年、「師弟 master-disciple というような伝統的な関係はもうおしまいだ。私はみんなの友だ」みたいなことを言っていた。すなわち、一方が他方より偉いというのではなく、ただ「少しばかり先を行っている」ということらしい。
 Azizの「teacher-student」関係もまたそのような事情を表しているのであろう。      (5/28記)

   


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