越中過去帳
私ぱるばは三年ほど前から、真木テキスタイルスタジオおよびオショーごっこという二つのホームページを編集している。
その中から、越中に関係する記事をいくつかピックアップして、ここにご紹介しよう。
「梅雨明け十日」というが、今日も昨日と劣らず夏らしく、暑い。
今日はこの暑さの中、家内避暑もせず、33℃の自室でパソコンごっこをしていた。
簡単な避暑法を見つけたのだ。
金もかからないし、誰でもできるし、何より気持ちイイ。
これで体表面の温度が4℃は下がる。
つまり、服を脱ぐこと。
これはテキスタイル・ビジネスに身を置くオレの年来の主張なのだが、
日本人はもうちょっと自国の気候にあった身なりをする必要がある。
特にビジネスマンの夏の格好は最悪。
なんで亜熱帯の日本の夏に、冷涼なヨーロッパと同じ格好をする必要がある。
上は下着にワイシャツ、ネクタイ、(背広まで着てるヤツがいる)。下はパンツにズボン。そして靴下つけて、革靴まではいてる。
こりゃ秋十月の格好だよ。
おかげで足や陰部は水虫田虫の温床となり、金玉は異常高温のため機能不全に陥る。(このATOK12には「金玉」さえ入っていない)
それでオフィスや店舗や電車は冷房ガンガン。その電力をまかなうため、発電所はフル操業。そうして資源は枯渇し、CO2や核廃棄物は大量生産される。
ところが生身の人間はそのせいで冷房病。ために真夏でも当スタジオのショールがよく売れるという始末。
真夏に秋の格好をしているという無理無体によって、この国の人々には相当のストレスがたまっているはず。
それが様々な社会病理現象として噴出しているというのは、想像に難くない。
ここはいっそ、みんなでスパッと衣服を脱ぎ捨て、裸になって街を闊歩したら、どんなに世が平和になることだろう。
(そういえば今日、「核兵器反対!」というノボリを掲げて五日市の街を練り歩いていた労組系の人々がいたが、汗をふきふき、いかにも暑そうだった。あーゆー平和運動の人たちこそ、まず衣服を脱ぎ捨て、自分自身を気持ちよく安らかにすることから始めねばなるまい)
ここで思い出すのはフンドシだ。
フンドシと聞いて、笑ってはいけない。
日本の祭でもフンドシ姿で挙行されるものがけっこうあるし、お相撲さんもフンドシ姿。
フンドシとはけっこう神聖なものなのではなかろうか。つまり我々の祖先のいでたちを伝えているのだ。
というわけで、どうだろう、男はフンドシ、女は腰巻き一丁で暮らせるような社会!
都知事のI氏あたりが率先垂範してくんないかね。
編者註:
99年の八月、伊豆の修善寺で十日間の瞑想キャンプがあり、私も参加してきた。
そのプログラムのひとつに「滝行」があった。
実は私は、そのために初めて、越中なるものを買って、身につけてみたのである。
上の写真で滝を浴びているのは私。裸体のように見えるが、絹製の越中をつけている。
文中に頻出する「キヨタカ」なる人物は、このキャンプの主催者(写真下の越中姿)。
…今回いちばん印象深かったのが、『滝』。
修善寺の周辺にはいくつも滝がある。
そしてキヨタカは一月ほど前から「滝行」を始めていたのだ。…
何事にも好奇心旺盛なオレは、その話を聞き、密かに越中褌(フンドシ)を用意して滝に備える。
そして、修善寺に到着するや、さっそく翌7日の朝から滝に連れてってもらったというわけ。
キヨタカが主に通うのは、リーラスペースから車で十分ほどの「旭滝」(写真上
photo by Bhagya)。
ここは古来からの行場であるらしく、滝のすぐ下には「瀧源寺」という禅寺がある。
この瀧源寺、もともとは普化宗(ふけしゅう)の寺で、尺八の名曲「瀧落とし」はこの地で生まれたのだという。
(普化宗とは虚無僧の属する禅宗の一派。明治初頭に廃絶)
途中、大阪から滝行のスペシャリスト・マニッシュ(写真下の白衣姿)がやってきたので、作法をいろいろ教えてもらう。
滝衣に数珠、錫杖を携えての参加だ。
行場の横には不動明王が祀られている。
そして滝そのものは八大龍王(龍神さま)になぞらえられる。
そこでまずこの両神に向かって、「これから滝をいただきます」とご挨拶をする。
それから滝の前に行って、結界を張る。
これは四方および滝正面に向かって、「臨兵闘者皆陣列在前、
エエ〜イッ! 」と気合いを入れるのだ。
そうして、両手で印を組んで、滝に入る。
入ってすぐは、水の冷たさと勢いに負けそうになるので、「ノーマクサンマンダー」とか、「オショー!
」とか、大声で真言を唱える。
そうして水を浴びていると、ほどなく、身体が慣れ、暖まってくる。
絶え間なく降り注ぐ落水の中で、マインドは停止し、なんとも気持ちいい。
いつまでも浴びていたい心境だ。…
薬屋さんの話ではない。
褌のこと。
最近、どうしたハズミか、褌に凝っているのである。
今も褌一丁でパソコンに向かっているという次第。
一般に褌といっても、二種類ある。
六尺と越中だ。
六尺というのは文字通り、六尺の長い布。それを股に締め込む。学習院の赤フンとか、先日ご紹介の台湾ツヤマさん着用のもそれだ。
越中というのは、その半分くらいの長さの布にヒモがついて、ちょうどT字型になっている。
この越中褌を使い始めて、一ヶ月ほど。すっかりトリコになって、離せなくなった。
それでみなさんにもお勧めするという次第。
世に蔓延する洋装のブリーフと比べて、その魅力とは何か。
1. ストーリー性
ブリーフを着脱するとき、何らかの感動ないしは感慨があるだろうか。ありはしない。ただ、腰をかがめ、機械的に上げ下げするのみだ。
越中の場合、その着脱という行為に様式美がある。
着用の際には、まず裸形になり自然体で直立する。一切の衣を脱ぎ捨てた、この天然自然の姿が清々しい。
それからやおら、ひとひらの布をとりあげ、尻の上にあてがい、付属のヒモを前にまわし、丹田のところで結ぶ。きつくもなく緩くもなく。この中道的なあんばいが、瞑想的。
尻からスッと下に垂れている布を後ろからパッとたたき、前で素早く受け取る。静中動あり。
その布を丹田上のヒモに通し、前に垂らす。布の両端をつまんで、カタチと締め具合を整える。これで完了。
脱ぐときは簡単。直立のまま、前垂れを少々たくしあげ、蝶結びのヒモの一端をひっぱる。
するとひとひらの花のごとく、布はハラリと下に落ちる。
そして再びあなたは天然自然の姿に立ち戻る。
この営為はぜひとも、ベッドに横たわる女を前にして、やってみたいものだ。
腰を屈めてパンツを脱ぐなんて、カッコ悪いと思わないか。2. 審美性
いつか電車の中吊り広告で見たことがある。明治時代の写真だったか、旅館の一室で、若い仲居さんを前にして、褌姿の男が夕飯を食っているのだ。当時はこのような風景が自然なものであったらしい。
ツヤマさんの褌姿も正装なのだ。
ブリーフだったらそんなわけにはいくまい。つまりブリーフはあくまでも下着。
私もさすがにブリーフ姿で客の前に出たりはしない。
ところが、褌だと客前に出ても失礼という感じがあんまりしない。
褌は裸体を引き立たせる。
だから褌をしていると、自分の体をいつまでも若々しく美しく保とうという意識が働くのではないか。3. 機能性
男の一物、特に陰嚢は、締めつけるものではない。だからこそ股間に下垂しているのだ。睾丸の温度は体温よりも低めである必要がある。
だから平生、金玉はブラブラさせておいたほうがいい。
しかし、いったんコトがあったら、フンドシを締めてかかるというわけ。
左様、越中ではそのような芸当が簡単にできるのだ。
普段は緩めに締めておいて、一物に自由な運動を許す。これが思いのほか、くつろぎをもたらしてくれるのだ。
もちろんそのためには、ISSEYのパンツとかインドのクルタみたいな、緩やかなズボンが必要。Gパンなんて論外。
また越中は、骨盤の上でヒモを結び落下を防ぐという仕組みなので、ブリーフのように常にゴムで締め付けられるということもない。(だから、滝を浴びても、水に飛び込んでも、水圧で落ちるということがない)
さて、このような長所をもった越中であるが、いったいどこで入手したらいいのか。
私の場合、東京お茶の水にある「伝統芸術を着る会」のショールームで入手した。この「伝統〜」はよく新聞などで宣伝している作務衣屋さん。絹製褌が二枚組で五千円。綿製が三枚組で四千五百円。フリーダイヤル
0120-77-0756
またウチの顧客でもある和裁士・木村さんの一衣舎でも、いろんな種類の絹麻製褌を注文製作している。こちらは一枚三千円。私も何点か注文中なので、そのつけ心地をまたレポートしようと思う。
それからふんどし情報というHPにアクセスするといろんな情報がある。
ともあれ、ぜひ一度お試しあれ!
今朝、机の前に座ってパソコンごっこをしていたところ、屋根の上でノシノシ音がする。
おかしいなァ、大工さんなんか頼んでないのに…。
1999・9・9だからかなァ…。(この日はY2K的な特異日なんだそうだ)
その怪音がなかなか止まないので、窓を開けて、上を見てみる。
そしたら驚いた。
黒い影がひとつ、ひさしから降ってきて、庭木の上に止まるではないか。
猿だ! それも見事なオス猿。
どおりでここ二、三日、夜になると、近くの森で、ギャーという野生の雄叫びが聞こえていたわけだ。
ウチの庭先に猿が出現したのは、この三年のうち二度目のこと。
ところで、なぜオス猿とわかったかというと…
悠然として森の方に去る彼の尻モトに、ふぐりが輝いていたからだ。
なるほど、あの輝きこそ、金玉というにふさわしい。
彼にとって、あれこそオトコのステータスシンボルであり、視覚的フェロモンの発生源なのだ。
あれを見て同類の女性たちは、「ステキ!」とか思ったりするのだろう。
そのピンク色もあいまって、とにかくよく目立つ。
あのように陰嚢が目立つのは、まず第一に睾丸を低温に保つためなのだが、それが性的シンボルの役割を果たすようになったわけだ。
ひるがえって我が人類をかんがみるに、陰嚢はほとんど性的シンボルとしての機能を果たしていない。
陰嚢を見て発情する女性ってのは、少ないのではないか。
陰嚢は文字通り、日陰者なのだ。
なぜそうなったかというと、これも人類の直立歩行のせいだろう。
四つ足だと陰嚢は後ろに突きだし、まさに「陽嚢」という感じ。
ところが直立歩行すると、陰嚢は股間に収まってしまい、目立たなくなる。
これでは性的シンボルとして役に立たない。
実を言うと、陰嚢は、日陰者どころの存在ではない。
「見せてはいけないもの」なのだ。
嘘だと思ったら、明日、銀座の大通りで陰嚢を露出して歩いてごらん。
たちまち猥褻物チン列のカドでしょっぴかれるだろう。
この「陽嚢」から「猥褻物」への転落。そのウラには、人類の長い歴史がある。
簡単に言うと、セックスを抑圧すると戦争に勝つのだ。
この数千年の間に、性抑圧的民族が性寛容的民族を滅ぼし尽くしたというわけ。
十戒にも高らかに謳われているではないか、「汝、姦淫を犯すなかれ」!
あのスピリットがユダヤ教から、キリスト・イスラムへと受け継がれ、世界の西半分を制してしまう。
東半分にしても、事情はさして変わらない。
とにかく戦いに勝つため、軍隊のみならず、社会全体で性を抑圧する。
そうした経緯があって、陰嚢は深くしまいこまれることになる。
しかし本来、陰嚢はしまいこむものではない。
できるだけ露出させ、睾丸の温度を下げないといけない。
そうしないと、いろいろ厄介なことがある。
たとえば、現代社会で最も軍隊的な服装といえば、男子の学生服。
真夏でもなんでも、厚手の綿あるいは混紡の黒いズボンを穿かせられる。
その下には、もちろん綿のブリーフ。
あんなものがいいわけない。
だから、ガクランを着ている男子高校生は、ほとんど例外なく陰金田虫に悩まされる。
オレもそうだった。
陰嚢に銭形の頑癬が広がるのだ。
それを治すにはキンカンを塗るのだが、それが飛び上がるほど痛い。
また、睾丸の温度上昇によって、精液の製造に支障が生じると言われる。
しかしそれ以上に、精神衛生上、様々な悪影響を及ぼしているに違いない。
哺乳類が誕生して6500万年。その間、睾丸はずっと冷却されていたのだ。
百年や二百年でその生理構造が変わるわけはない。
それで、この越中大作戦というのは、オトコの股間温度を下げ、珍宝金玉(「ちんぽうきんぎょく」と読む)に快適な生活を送ってもらおうというプロジェクトだ。
もはや性を隠蔽して他民族を征服するような時代じゃない。
地球温暖化をはじめ全地球的危機の叫ばれる昨今、これは火急の課題だと私には思えるのである。
オトコを冷やせ!
編者あとがき:
とまあ、こんなことを書いているうちに、ええい、めんどくせえ、いっそのこと、越中のホームページやっちまえ! ってことになったわけ。