Oshoコミューン2009


2009年1月、久しぶりにインド・プーナのOshoコミューンを訪ねる。
いはば、ノスタルジック・ツアー。
ほとんど何の期待もなく、淡々と出かけたのであるが、さてそこで見たものは…

プーナまで

 とある経緯により、プーナのOshoコミューンを訪ねることになる。
 1987年から2002年まで15年ほど毎年通っていたが、その後、ふっつり縁がなくなった。
 7年ぶりのプーナ訪問となる。

 かつては難儀な旅だった。ムンバイから車でづづら折の坂道を蛇行して、二日がかりの道程。
 今回はJAL直行便でデリーまで飛び、そこで国内便に乗り換え、順調に行けば同日中(インド時間)にプーナに到着する。
 国内便も日本からネットで予約し、座席指定までできる。まさに隔世の感。

 朝6時。まだ夜の明けぬ中、東京近郊の自宅を出る。
 二日ほど前に観た映画『禅』の影響もあって、真新しい作務衣に身を包み、法を求めて異国に旅立つという風情。
 バッグには岩波文庫版『正法眼藏』を忍ばせる。

 9時過ぎ成田空港に到着。チェックインを済ませ、セキュリティを通過し、出国審査を受ける。
 審査官氏、私のパスポートを見ながら、何を思ったか、「今、映画やってますよ」と言う。
 『禅』のことだ。道元禅師を描いた作品である。
 丸刈りの我がいでたちと、行き先を見て、求法に向かう坊さんだと思ったのか。
 きっと彼も映画を観て、感動したのだろう。
 今まで何十回となく成田から旅立ったが、出国審査官に話しかけられたのは初めてだ。
 この国も変わっていくのだろうか。

 昨年からJALのデリー便は毎日運行となった。
 ただ最近は、機材が最新の777から747になり、JALウェイズとの共同運行という、「格下げ」になったみたい。
 搭乗率も20%ほどで、乗客としてはメチャ楽なんだが、これで成り立つのか少々心配になる。
 デリーには定刻よりもやや早く、5時25分に到着。入国審査と荷物受取も非常にスムーズで、6時過ぎにはもう外に出ていた。
 この国も変わっているのである。
 国内線の空港へは車で20分ほどだ。JALで到着すると連絡バスのサービスがある。
 プーナ行きの便はいくつもあるのだが、安全策を採って、最終9時10分のを予約する。

 国内線のラウンジにマクドナルドがあったので、ひとつ試してみる。
 もちろんビーフのハンバーガーは無い。
 ベジタリアンのチーズバーガー、65ルピー。(1ルピー=2円弱)。まあ悪くはない。
 でもやっぱり、インドのスナック「サモサ」のほうが美味いし安い。
 ついでにミルクコーヒー、35ルピー。
 ほかに、フィレオフィッシュとチキンバーガーもメニューにあった。これなら宗教宗派を問わずOKだろう。

 プーナ行きの国内線は新興のキングフィッシャー航空を使う。
 キングフィッシャーといえば、インドの有名なビール会社だ。
 言うなれば、サントリー航空という感じ。飛行機の外装はビールそのものだ。
 しかし、内装やサービス、スッチーがゴージャスなので、やっぱり利用したくなる。
 宣伝文句に「インド唯一の5スターエアライン」とある。
 機材はエアバス319で、個人用テレビモニタがついている。国内線だから残念ながらビールは出ない。
 二時間ほどのフライトで、運賃は3500ルピー少々。機内ではインド食の夕飯が供された。

 定刻より少々遅れ、12時過ぎにプーナに到着。
 タクシーに乗ってOshoコミューンに辿り着いた時には12時半を回っていた。
 日本時間で午前4時。22時間にわたる長旅だった。


ゲストハウス

 数年前から、コミューン内に宿泊施設ができた。
 Oshoゲストハウスという名前だ。
 これは日本からネットで予約できる。
 プーナ市内のホテルより少々高目だが、ロケーションは抜群。
 短期の滞在なら絶対オススメだと友人が言う。
 今回はいちおう一週間ほどの予定だったから、そのオススメに従うことにする。
 ダブルの部屋だが、シングルユースで税込5000ルピーくらい。
 ダブルでもそんなに変わらないので、カップルには好適かも。
 でもちょっと狭いかなあ。

 禅的なシンプルな内装で、非常に清潔。シャワー・トイレ付き。
 室内には机もないし、電話もない。ネットも通じない。
 瞑想に専心してもらおうという配慮らしい。
 ランドリーサービスはあるが、ルームサービスはない。
 五階建てで、客室は二階から五階まで。
 トップシーズンの冬は通常、一ヶ月前の予約が必要らしいが、今年はムンバイテロの影響などで稼働率は85%ほどだという。
 だから今回は直前の予約でも大丈夫だった。
 三月からは通常シーズンになり、部屋代も半額ほどになる。

 フロントは洗練されたインド人で、たぶんサニヤシン(Osho弟子)ではあるまい。(そのほうが安心!?)
 インドのホテルの常として、男子はブレザーにネクタイ、女子はサリー姿だ。
 ロビーのホールにはOshoの説法集(英語)が備えられ、たぶん貸し出しもするのだろう。
 大きなガラス越しに見える竹と石垣が美しい。

 とにかく、コミューンの一部という感覚が良い。
 コミューンから一歩外に出ると、そこは良くも悪しくもホコリっぽいインド世界なんだが、ここは違う。
 ホテルスタッフもちゃんと心得ているから、余計な雑音・雑エネルギーがない。
 これは非常に助かる。
 場所は、コミューンのメインホールであるOshoオーディトリアムの隣。
 私の部屋はオーディトリアム側の四階だったので、毎朝、ダイナミック瞑想の音で目覚めたものだ。



コミューンに入る

 翌朝、早速コミューンのチェックインだ。
 メインゲート横のウエルカムセンターで、いろいろ手続きをする。
 書類を書き込んだり、写真を撮ったり、エイズテストをしたり。
 エイズテストはOsho在世中の80年代からの伝統で、今さら要らないんじゃないかとも思うのだが、まあ、定期検診だと思って諦める。
 ウエルカムセンター前の禅風庭園は、飛騨の庭師アナンドボーディ(谷口和哉)が15年ほど前に造ったものだ。
 一時間ほどで手続き完了。
 入場料を払って中に入る。

 入場料は一日550ルピー。
 Osho在世中は100円くらいだった記憶があるから、だいぶ上がった。
 インド経済成長の影響もある。
 入場料には瞑想参加費とプールやサウナの使用料も含まれる。

 瞑想はOshoオーディトリアムを中心に、朝の6時から夜の10時まで様々なメニューがある。
 自分の好きなのを選んで出たらいい。
 別に出なくてもいい。

 7年も経つと、昔といろいろ違っている。
 一番大きな変化のひとつは、昔のブッダホール「ゴータマ・ブッダ・オーディトリアム」だろう。
 正門を入ってすぐ左側、白大理石敷きの大ホールだった。
 ホールと言っても、屋根は巨大なビニールシートで、周りは壁ではなく蚊よけのネットだった。(世界最大の蚊帳としてギネスに載ったという話もある)
 その半屋外みたいな雰囲気が、プーナの亜熱帯性気候によくマッチしてエキゾチックだった。
 ホール正面の演壇にだけ、小さな屋根と緑大理石の壁があった。
 その演壇上で、Oshoは晩年の三年間、毎日のように説法を垂れたのである。
 私がOshoの肉声に接したのは、ギリシアでの数日間のほかは、ここブッダホールだけだった。

 それが今回は驚いた。
 屋根もネットもなくなっている。
 演壇の屋根や壁もない。
 かつて演壇は神聖にして犯すべからずといった風情を醸していたが、今は物を置く台のような存在だ。
 すべて白大理石でできているから、ちょっとギリシアの遺跡みたいだ。
 ビニールシートの耐用年数や建築法上の問題もあったのであろうが、往時を知る者としては些かショックであった。
 ただ、ホール全体を覆っている白大理石の床はいまだ健在。
 今はブッダ・グローブという名称になって、ダンスや弓道、絵画クラスなど、様々な催しの会場として使われている。



摩訶迦葉エリア

 一番大きく変わったのは、正門から道を隔てた一画、マハーカシャパ(摩訶迦葉)エリアだろう。
 摩訶迦葉とはブッダの弟子で、禅の始祖と言われる人物だ。
 以前ここにはOshoカフェというキッチンがあり、日本人が中心となって食事を供していたものだ。
 そしてその奥では、大規模な工事が行われていた。

 七年経って、すっかり様変わりした摩訶迦葉エリア。
 ゲートを入ると、正面の泉水と仏像が迎えてくれる。
 そこここに石造りの垣や竹藪が配されている。
 なかなかセンスの良いデザインだ。

 石垣をたどって進むと、やがて現れる黒御影のピラミッド型建造物。
 Oshoオーディトリアムだ。
 その正面には堀のごとく清水が湛えられ、中央に人道が渡されている。
 人道はオーディトリアムに至ると左右に分かれて階段となり、二階部分が入口だ。
 入口ホールは壁面全体が靴入れになっている。そこで靴を脱ぎ、ガラスの扉を押し開けて中に入る。
 内部は緑大理石の敷きつめられた大ホール。
 ピラミッド型の天井は遥かに高く、四囲には壁を巡らし、外界と完全に隔絶されている。
 広さは昔のブッダホールと同じくらいだろうが、その雰囲気は当然のことながらずいぶん違う。

 先にも述べたように、ここOshoオーディトリアムでは、早朝のから夜遅くまで、様々な瞑想プログラムが組まれている。
 その多くはOshoが現代人のために工夫したものだ。
 コミューンの中心イベントである毎夕のイブニング・ミーティングもここで行われる。

 ホールの一階部分はキッチンになっている。
 そのキッチンで朝昼晩の三食、および午後のティーが供される。
 オーディトリアム西側の中庭には、広々とした野外の食事スペースがある。
 木々や竹、パラソルの下に、テーブルがしつらえられ、人々はそこで思い思いに食事をとる。

 その傍らには売店もあって、コミューンライフの必需品や日常の細々したものが買える。
 ちなみに、このエリアの最奥、今ではほとんど訪れる人もない一角に、かつて飛騨の庭師アナンドボーディが水琴窟を据え付けた。
 苦心して日本から運んだものだが、15年の年月を経て底に塵芥が集積したらしく、もはや妙なる音は聞こえなくなっていた。

 またちなみに、Osho日本大使のシャルノ(石田かつえ)が、かつてコミューンに和太鼓を献納した。ケヤキの胴の立派なものだ。ついでにオレも太鼓台を献納した。
 その太鼓がオーディトリアム奥の倉庫に、台とともにひっそり眠っていた。
 今回、コミューンでイベントをするから敲いて欲しいと頼まれたので、ある夜、久しぶりにブッ敲いた。けっこう好評であった。
 太鼓の皮が少々傷んでいたので、400番の紙ヤスリでこすり、ジョンソンのベビーオイルを擦り込んでおいた。しばらくはこれで大丈夫だろう。
 コミューンのそこここには、こうした過去の遺構がひっそり眠っているのである。



ドレスコード

 コミューンに参加するには、それなりの服装が必要だ。
 それはマルーンローブにホワイトローブ。
 ローブとは長衣のこと。マルーンとはエンジ色だ。
 これについては昔と変わらない。

 どちらも先述の売店に置いてある。
 デザインもいろいろ。S・M・L・XL各サイズそろって、千円もしない。
 ちなみに日本人はだいたいMまでで収まる。XLは欧米から来た巨人たち用だ。
 ファッション業界に身を置く者としては、みんなと一緒じゃつまらない。
 それでキモノっぽい襟のを一着買って、ついでにヒモをもらって三つ編みにし、腰に巻いた。(アッシジのフランチェスコ気分)

 あのフワっとした感じがプーナの気候に合っていて、なかなか気持ち良い。
 私の滞在した1月24日から2月6日までの間には、日中の最高気温が35度まで上がった。
 この時期は日本では一年で一番寒い頃だが、プーナの場合、年末年始あたりが一番気温の下がる時期だろう。
 今年は気温の上昇が平年より早いようだ。
 早朝は涼しいが、昼頃になると暑くて日向に出たくなくなる。
 コミューンのプールで泳いでいる人々もいる。
 ゲストハウスには冷房が入っていた。

 朝の9時から午後4時までは、マルーンローブ着用ということになっている。
 その間、マルーンを着ていないとつまみ出されるということもないが、平服だとかなり居心地悪い。

 ホワイトローブの規定はかなり厳しい。
 ホワイトローブというのは、イブニング・ミーティングの際の服装だ。
 文字通り、白い長衣。
 ローブのつもりで日本から白いクルタとパジャマ(すなわちインド風の上下)を持参したんだが、入口でしっかりチェックされた。
 ツーピースではなく、あくまでもワンピのローブじゃないとダメなのだ。

 ついでに言うと、イブニング・ミーティングに持ち込めるクッションやラグ類にも、かなり厳しい規定がある。
 大理石の床はヒンヤリ冷たいので、座るにはやはり何が欲しい。
 売店などで事前に聞いておくと良い。
 それやこれやで私は、到着してから二日間、イブニング・ミーティングを逃すことになる。



食事

 異郷を旅して、一番の楽しみは食事だろう。
 若い頃からいろいろ旅しては、現地のものを口にしてきた。
 その中でも、インドの食文化はピカイチの部類だと思う。
 私にとってOshoコミューンに滞在する魅力のひとつは、インド飯が食えるということだ。

 Oshoコミューンには現在、食事場所がふたつある。
 先述の摩訶迦葉エリア中庭と、本部エリア・プールサイドの「ゾルバ」キッチンだ。
 ゾルバの方が小規模だが、ちょっと凝った料理が供される。
 私は場所柄もあって、主に摩訶迦葉キッチンを利用した。
 カンティーン形式で、好きな料理を自分で取って、その分を支払う。

 料理はベジタリアンで、インド料理、西洋料理、ボイルした野菜類、米飯、パン、果物等々。
 インド料理と言っても、通常、サブジ(野菜カレー)一品とダール(豆カレー)一品だけで、チョイスは無い。
 ただ私はチョイスがあると迷う方なので、無いほうが有難かったりする。
 それでいつも何も考えず、サブジと米飯を取る。
 サブジはさすが本場だけあって、美味い。
 米飯はインディカ米の玄米で、きっとヘルシーなはず。(白米もある)
 果物は、パパイヤやバナナ、チクー(柿みたいな味)、リンゴ、ブドウ、オレンジ等。
 西洋料理も日替わりでいろいろあったようだ。ピザが出たときは長蛇の列だった。
 コミューンで焼かれるクロワッサンはインド一との評判だが、まあ日本のパン屋と同等だ。
 郷に入りては何とやらで、インドに来たら黙ってインド飯を選ぶべし。

 もっと郷に入りたかったら、外に食べに行くという手もある。
 市内に何軒かあるターリー屋などが、ディープなインドを味わえて良い。ターリーというのは西インド・グジャラート風の定食。
 小さな器に盛られて出てくるひとつひとつがエキゾチックで美味い。日本はもちろん、首都デリー(北インド)でもなかなかお目に掛からないレア物だ。
 できたらインド式に手でぐちゃぐちゃやりながら食べるとウマい。断らない限りどんどん給仕されるので、どんな大食漢でも満腹。ただし腹をこわしても責任は取れない。今回はMGロードに平行するEast Streetのマユールという店に出撃した。
 本場のパンジャビ・スタイル(我々の知るいわゆるインド料理)を垣間見たかったらメリディアン・ホテルのランチバイキングだろうか。5スターホテルだから爪先までめかして出かけるべし。豪華なレストランでマハラジャ気分だ。それでも六百ルピー少々。
 ともあれ、コミューン内はぜんぜんインド世界じゃないので、たまに社会見学を兼ねてお出かけも良し。
 


イブニング・ミーティング

 以前はホワイトローブ・ブラザーフッドという名前だったが、今ではこう呼ばれるようだ。
 ブラザーよりシスターの方が多いわけだから、この名称でも良いのかもしれない。
 かつてOshoの夜の説法タイムが、このような形を取って続いている。
 名前やホールは変わっても、形態は昔のままだ。

 夕方の6時半から始まるこの時間だけは、コミューン内のすべての営みは停止する。
 ゲートはすべて閉じられ、出入りもできない。
 人々はシャワーを浴び、白いローブに着替え、無言でオーディトリアムに入場する。

 ほどなくすると、ダンスミュージックが始まり、みんな立ち上がってその場で踊る。
 多くはライブのバンド演奏だ。
 私はややヘソ曲がりだから、立ち上がって踊ることもあれば、そのまま静かに坐っていることもある。
 途中、音楽が高揚し、Osho!の大コール。(これは万歳みたいなもの)。
 最後にOsho三唱があって、みな着坐。そして静かな音楽に身を委ねる。
 途中、音楽が何度か停止し、人々は静寂の中に投げ込まれる。
 太鼓三打によりそれも終了。
 続いて、ビデオによるOshoの説法が始まる。
 前方のスクリーンに在りし日のOshoが映し出される。

 今回の滞在中は、Langage of Existenceという説法シリーズが放映されていた。
 これは1988年の秋に語られた、一連の禅シリーズのひとつだ。
 この禅シリーズは、禅に題材を取ったもので、88年春から89年春のOsho最後の説法まで、約一年ほど展開された。
 それほどOshoは禅が好きだったのだろう。(ついには自分の名もオショーに変えてしまった)
 この間、私はだいたいプーナに滞在し、Oshoの話に耳を傾けたものだ。
 禅シリーズ最後の頃には、自らOshoのために禅話を日本語から英語に翻訳もした。
 ただ、88年秋は、たまたま日本に滞在中で、プーナに居合わせなかった。
 それでこの説法集は初めて耳にするものだった。
 盤珪とか、洞山、臨済と言ったお馴染みの禅師、俳人の一茶などが登場し、我々には親しみやすい。

 もう二十年も前の説法だが、古いという感じがまったくしない。
 銀幕上の映像だということも、忘れてしまう。
 まさに今そこでOshoが語っているという風情だ。
 かつてブッダホールで遠くから眺めていた時と違って、Oshoの顔が大きく映し出されるから、その眼差しや表情がよく伝わり、かえって迫力がある。
 お前たち、こんなに言っているのに、まだわからんかッ!!
 そんな感じ。
 ごめんなさい、まだわかりません…

 説法の最後にOshoはジョークを二つほど読み上げる。
 Oshoにとって「法」とは深刻なものではないらしい。
 かなりエグいジョークだ。
 誠に口惜しきことだが、半分くらいしかわからない。
 わかったヤツをひとつご披露すると…

 ジョンは薬局にコンドームを買いに行った。
 店員のルーシーが言った、「サイズは?」
 ジョン「わかりません」。
 ルーシー「じゃ、こっちにいらっしゃい」。
 ルーシーは奥にジョンをいざない、スカートをたくしあげ、ソファに横になって言った「さあ、入れてみて」
 ジョンは言われるままに自分のイチモツを挿入する。
 「サイズ7ね」とルーシー。
 「で、いくつご入り用?」
 ジョン「えーと、1ダース」。
 購入した避妊具を手に、ジョンは行きつけの酒場に行く。そして友人のパディに一部始終を語る。
 「ホント!? 」、目を輝かすパディ。
 そしてさっそく薬局に出かける。
 パディ「コンドームください!」
 ルーシー「サイズは?」
 パディ(うれしそうに)「わかりません」
 ルーシー「じゃ、こっちにいらっしゃい」
 パディを奥にいざない、スカートをたくしあげ、横になって、「さ、入れてみて」とルーシー。
 パディはいそいそと挿入し、最後までやってしまう。
 ルーシー「サイズ8ね。で、いくつご入り用?」
 パディはズボンをたくしあげながら言う、「いや、今日は試着だけで」

 ジョークが終わると、ジベリッシュ瞑想の時間となる。
 スーフィー(イスラム神秘主義)に源を持つ瞑想法だ。
 でたらめな音声を大声でしゃべり散らして、マインドの浄化をもたらす。
 満場騒然。

 やがて太鼓の一打で、場内、水を打ったように静まりかえる。
 そしてOshoの瞑想誘導が始まる。

 Be silent.
 Close your eyes.
 Now go deep into your center of being.
 In that very center, you are a buddha.

 そんな感じ。
 Oshoの誘導のもと、しばし静かに坐る。
 自分がブッダだということをよく覚えておきなさい ― 。
 人々は目を閉じ、ひたすら自分の内側へと入っていく。
 その沈黙の中、イブニング・ミーティングは終了する。

 人々はクッションや座椅子を抱え、静かに去って行く。
 冷ややかな大理石の感触が足裏に心地良い。
 坐りたい人はいつまでも坐っていてかまわない。
 この時間がじつに心地良い。
 何物にも代え難い静寂のひととき。

 やはりこの夕べの集いは、コミューン活動の白眉であろう。
 Oshoの存在は今も濃密である。
 


涅槃・最後の悪夢

 最近、自分でも瞑想の指導をする機会がある。
 そのとき、拙訳のOsho説法録を並べておくと、けっこうみなさん買ってくれる。
 ただ、拙訳Osho本は『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ(全十巻)』と『ノーマインド』および『禅宣言』の三種。
 どちらかと言うと、『タントラ』は本格的瞑想指導書、他の二冊はベテラン・サニヤシン向けで、ややとっつきづらい。
 瞑想初心者にもアピールするようなOsho本はないものかと考えていた。

 ある日、コミューンの書店にぶらりと入ったところ、一冊の本が目に止まる。
 Nirvana:The Last Nightmare
 邦訳すると『涅槃・最後の悪夢』。
 このタイトル、昔から気になってはいた。
 仏教の究極とする涅槃 ― それが最後の悪夢だという。
 すごい題名。
 Oshoは本のタイトルも自分で決めたというから、これもOsho作なんであろう。
 気にはなっていたが、読んだことはなかった。書店で見かけたこともなかったので、おそらくダルシャン記録かとも思っていた。(ダルシャン日記というのは、Oshoとの個人面談の記録)

 再版されたばかりであろう真新しい本書を手にとって、少々驚いた。
 禅の話だった。
 それも日本の禅話を題材にしている。
 早速一冊買い求め、部屋で一読。
 なかなか面白い。
 第九章など、読みながら思わず感泣した。
 日本という国もなかなか捨てたものじゃない。
 1976年2月の説法で、ちょうど33年前の今ごろ語られていたものだ。
 この頃の話は一般の人々にもわかりやすい。
 それでひとつ翻訳してみようかという気になる。

 こうした本を翻訳する場合、いちばん難しいのは、じつは日本の話を英語から日本語へ戻すことだ。
 特に固有名詞。
 本書第三章に出てくる夢窓国師のような著名人なら問題ないが、馴染みのない名前だと手こずる。
 英訳や書写の過程でスペルミスも起こる。
 たとえば、Dogenなら道元だが、それをDojenとか誤表記されると、かなり面倒なことになる。
 プーナに居る間に出典のリサーチが必要だ。
 Oshoの説法に出てくる禅話は、だいたいOshoの蔵書から採られている。
 そこで書籍係のカマールおばさんの手引きで、Oshoの書庫に入れてもらう。
 書庫はOshoの住んでいたラオツ・ハウスの一角にある。
 エアコンの効いた大理石敷きの立派な書庫で、蔵書の数は一万冊を超えるであろう。
 
 説法に使われたテキストの出典については、既にデータベースができあがっている。
 私も十年ほど前、この書庫に入ってそのデータベース作りに協力したものだ。
 そのデータベースに従って、カマールおばさんが書棚から二冊の本を取り出してくれる。
 いずれも1950年代にアメリカで出版された禅の書籍だ。
 貴重な古書を傷つけないように大事に開くと、おなじみのOshoのサイン。
 所々に下線が引いてある。
 説法に使われた部分を参照し、必要な部分のメモを取る。
 登場人物の年譜なども掲載されている。
 まあ、なんとかなりそうだ。

 Osho本の翻訳に取り組むのは11年ぶり。
 楽しみなことだ。



最終説法の周辺

 この七年間でインドの物価もだいぶ上がった。
 コミューン入場料も大幅にupしたから、かつてのように強い外貨を握って優雅に長期滞在♪ ― というわけにも、なかなかいかなくなった。
 にもかかわらず、ハイシーズンでもあったためか、コミューンは連日、かなりの人々でにぎわっていた。
 場内をそぞろ歩くと、けっこう知っている顔も多い。
 7年ぶりだから、みんなそれなりに年を取っている。オレも同じ分だけ取っているのであろう。
 コミューンの責任者ドクター・アムリットは髪もヒゲも真っ白。これでヒゲをフレンチにしたら、インドの国民的スター、アミタブ・バッチャンに瓜二つだ。

 ところで、Oshoは1989年の4月10日の説法を最後に、人々の前で語ることはなかった。
 この日はじつは、洞山録(とうざんろく)を題材にした新たな説法シリーズ「Awakening of the Buddha(ブッダの目覚め)」の初日であった。
 洞山録というのは、中国唐代の禅師・洞山の語録だ。
 当時は私もコミューンに滞在し、禅話を日本語から英語に翻訳していた。
 そしてOshoもそれを使って説法することが多かったから、私にとっても楽しい日々だった。
 洞山録もだいぶ英語に移した。
 訳し方ひとつで禅話の趣もかなり変わってくるから、Oshoがその意をうまく汲んでくれるよう、苦心して訳したものだ。
 説法の席でOshoがそれをどう料理するのか、毎回スリリングだった。
 一度などは、説法の席上、「この翻訳者はわかっていない」とお叱りを頂戴したこともあった。

 余談だが、今回の滞在中、イブニング・ミーティングで臨済禅師が登場。Oshoはかなり酷評していた。
 臨済は非常に混乱した覚者だ…てな感じ。
 あれはきっと英訳の問題だろうと思う。
 原典を字面通りに訳すと、ときとして非常な誤解を呼ぶ。
 OshoにはOshoの語法があるから、それに即して訳さないと、とんでもない解釈が飛び出したりする。
 今回の臨済がおそらくその例なのだろう。このOsho説法はとても日本語に翻訳紹介はできないなと思った。
 ま、Oshoにとっては臨済が混乱していようがいまいがあまり関係ない。とにかくその説法によって弟子たちの覚醒が高まればそれで良いのだ。
 しかしながら、翻訳者としては、できるだけ原意がOshoに伝わり、それに沿ってOshoが話してくれれば…と、いつも願うものである。

 話は元に戻るが、洞山録を扱った「ブッダの目覚め」シリーズを一日だけ語って、Oshoは姿を現さなくなる。
 そして結果的に、それがOsho最後の説法となるのである。(この説法はOsho最後の説法集『禅宣言』に収められている)
 洞山録からの英訳はたっぷりあったし、Oshoも語るつもりだったのだ。
 さて何があったのか。
 Oshoの侍医でもあったドクター・アムリットによると、この説法の終わった後、Oshoは秘書のアナンドに向い、体に何か違和感を覚えたと語ったそうだ。
 以来、ホールに現れて弟子達と共に座ることはあっても、ついに語ることはなかった。
 そして、それから9ヶ月後の1990年1月19日に世を去るのである。
 『涅槃・最後の悪夢』第9章に「心身を観照できたら六ヶ月前に自分の死がわかる」とあったが、Oshoも何かを感じたのだろう。
 アムリットによると、その後Oshoはコミューンの運営について短期間ですべてを整え、アムリット達に後事を託し、去っていったのだそうだ。



コミューンを後にして

 それやこれやで、当初予定していた一週間ほどの滞在は瞬く間に過ぎる。
 ここはインドだから、ひとつ何かをすると、それで一日が終わってしまう。
 そういう緩い時間の流れが心地良い。
 真夏の日差しもようやく収まった夕べのひととき、ティーカップを前に中庭に座っていると、そよ風と鳥のさえずりに包まれ、ひたすらに気持ち良い。

 名残は惜しいが、そろそろ帰り支度をせねばならない。
 私は仕事もあって年に一度は渡印するので、いつもインドで日印間の往復航空券を買う。
 ジャーマンベーカリーの裏手に、行きつけの旅行代理店があった。
 行きつけと言っても7年前までの話で、今は別の会社が入っている。
 両替商兼旅行代理店。
 何かの縁かと思って、そこでチケットの手配を頼む。担当はかわいい女の子だったが、やはり経験不足は否めない。
 後で気づいたが、コミューン内にも旅行代理店があった。そこの方が良いかも。
 昨今の円高で、インドでの航空券購入はかなりオトクだ。
 日印間往復、一年有効のチケットが十万円もしない。マイレージでアップグレードも可能だ。
 今回は事情もあってデリー発バンコク経由成田行きのタイ航空便だったが、デリー成田のJAL直行便でも同様の価格だ。ムンバイ発着便も同じだと思われる。
 
 そうして、約二週間に渡るOshoコミューン滞在に終止符を打つ。
 二週間というと、私にとっては短い方だ。昔は八ヶ月いたこともある。
 1990年にOshoが遷化した時、コミューンももうおしまいだという観測があった。
 しかし、その後も変わることなく栄え続ける。
 2000年の「十回喜」大祭で一応の節目を迎え、2002年を最後に私はしばらくご無沙汰をしていた。
 そして今年、7年ぶりに来訪して、コミューンはいまだ健在であった。
 その裏には、死を予期したOshoによる時を超えたデザインがあるのであろう。
 そのひとつが先にも述べたイブニング・ミーティングであり、Osho説法は今もって往時の輝きを些かも失っていない。

 入場料が高いとかいろいろ批判はあろうが、このような大きな施設を維持するってのは、並大抵のことではあるまい。
 白髪白髭の英国人ドクター・アムリットは、今も変わらぬ情熱を持ってコミューン運営に当たっている。
 Oshoの固い誡めもあって、ここは組織宗教の体裁を取っていない。
 「真理は組織化されると虚偽になる」とはOshoの名言である。
 そもそも、あんなジョークを毎日聞かされてたら、ちょっと宗教組織も作れまい。
 そしてコミューンには今も世界中から来訪者が絶えない。
 これはちょっとした驚きだった。

 ここにOshoの後継者はいない。
 道を求めるひとりひとりが後継者なのだ。
 拍子抜けするほど、何の戒律もない。
 瞑想していても、抱擁していても、ボーっとしていても、誰も何も言わない。
 何も言われないからこそ、厳しくもある。
 なかなかに類い稀な場所である。
〈完〉


 
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