アルナチャラ詣で


2005年早春。南インド・タミル州に赴く。
アルナチャラのお山を訪ねるためである。
それも含めて、旅の印象を少々。


旅の準備

 「アルナチャラ」って、なんか、ゆかしい響き。
 ローマ字で書くとArunachala。
 20世紀前半の覚者ラマナ・マハルシのいたところ。
 この覚者のことは、Osho も講話の中でよく語っている。
 アジズやフーマンからも耳にしている。
 それでいつか行ってみたいと思っていた。

 ここ十数年、インドにはたびたび出かけるのだが、そのほとんどは北か西。
 すなわち、デリーかプーナ。
 それ以外のインドには、あまり縁がない。
 それで今回は、デリーで仕事を終えた後に南へ行ってみようかと思い立った。
 行くんだったら、アルナチャラ。

 そこでネットでいろいろ情報を収集する。
 なんでもアルナチャラとはシヴァ神の顕現と言われる聖なる山らしい。
 場所は南インド・タミル州のティルヴァンナマライという街。
 聞いたことない名前だ。
 私の持っているインド地図には見つからない。

 それで便利なサイトを見つけた。
 マイクロソフトのやっているWorld Atlas
 その検索欄に Tiruvannamalai と入力する。
 ちょっと時間がかかるが、辛抱強く待っていれば出てくる。
 なるほど、チェンナイ(マドラス)とバンガロールからだいたい等距離。
 オーロビンド・アシュラムで有名なポンディチェリからは100kmもない。

 さて、アルナチャラの麓に、ラマナ・マハルシのアシュラムがある。
 このアシュラムには宿泊施設があって、希望者は泊まることができる。
 泊まりたい人は前もって申請する必要がある。
 これはEメールでもできる。
 そこでアシュラムの公式ページをチェックしてみると…
 やはり冬はトップシーズンであるので、「2005年1月は三ヶ月前から予約がいっぱい」と書かれている。
 これはインドに旅立つ前、1月中旬のことだ。

 我々のデリーでの仕事が終わるのは1月30日。
 そこで少々余裕を見て、こんなふうにメールを送る:「私たちは1月30日から2月10日までの間そちらに行かれますが、できるだけ前寄りの日にちで宿泊できないでしょうか」
 すると翌日、返信があって:「1月30日から三日間、泊まってよろしい」とある。
 けっこう迅速なので安心。

 アルナチャラのあるティルヴァンナマライの街に行くには、チェンナイかバンガロールまで飛行機で飛んで、それから陸路バスかタクシーで行く。
 チェンナイというのは、かつてマドラスと呼ばれた、タミル州の州都だ。
 同じ道を往復するのも退屈だろうから、我々は往路をチェンナイ、帰路をバンガロールにとることにする。
 仕事の関係で30日の出発が難しくなったので、一日ずらしてほしいとメールすると、またすぐにOKの返事が来る。
 空港からのタクシーもアシュラムがアレンジしてくれる。

 かくして準備万端整え、デリー空港からチェンナイ行きの飛行機に乗り込むのであった。


アシュラムへ

 南インドといえば、かつて工業都市バンガロールに来たことがあった。
 しかしあれは仕事で二泊したくらいだから、数のウチに入らない。
 それゆえ、南インドは今回が初めて。

 デリーからチェンナイまでは、飛行機で二時間半ほどだ。
 直線距離でいうと1700km前後。
 これをヨーロッパで言えば、北欧のストックホルムから南欧のローマに飛ぶくらいである。
 別の国に行くようなものだ。
 すなわちインドというのは、西ヨーロッパ全体に匹敵するほど大きい。
 ひとつの国であるのが不思議なくらいである。

 逆風のため30分ほど遅れて、午後一時にチェンナイ到着。
 外気温は摂氏28度。
 夏だ。
 デリーは日本の四月ごろの気候だったから、一気に三ヶ月ほど暦が進んだ感じ。
 空港のゲートを出ると、タクシーのドライバーが私たちの名前を書いたボードを手にしている。
 空港タクシーには得てして変な手合いがいるから、しかるべきところに予約しておくに越したことはない。
 タクシーに乗り込むと、運転席にラマナの写真が貼ってあり、ちょっと安心。
 チェンナイからティルヴァンナマライまで距離にして約200km。
 3〜4時間の道のりだ。

 市街地を走るタクシーの窓から見る、初めてのタミル州。
 人々の肌色は、アフリカ人に負けないくらい黒い
 そして文字は見慣れないタミル文字。
 ヒンディー文字に比べると丸っこい。
 そもそもタミル語はドラヴィダ語族に属し、印欧語族のヒンディー語とはまったく別系統だ。
 国語学者の大野晋はタミル語と日本語の同祖説を唱え、学会に論議を呼んできた。
 さあ果たして我々はタミル人と親戚なのであろうか。 

 途中で昼食をしたため、午後五時ごろアシュラムに到着する。
 タクシーを降りて、まずアシュラムの事務所で受付だ。
 ちょっと戸惑うのは、アシュラム内が裸足だということ。
 戸外も屋内も関係ない。
 すべて裸足。
 サラサラした砂質の土地で、きれいに掃き清められているから、汚いという感じはしない。
 アシュラム入口からすぐの事務室に入ると、精悍な顔立をした中年の男性が座っている。
 津川雅彦かユル・ブリンナー(ちょっと古い!?)みたいで、声も迫力がある。
 「ドクター」と呼ばれる人で、この人がいろいろ切り盛りしているらしい。

 このドクターのもとで受付を終え、部屋をあてがわれる。
 私たちの部屋はアシュラムに隣接した宿泊区画の一番すみっこ。
 道路から離れ、アルナチャラ山に面した、おそらく一番良い場所にあった。
 部屋そのものは至って簡素。
 パイプ製のベッドふたつと、小さなバスルーム。
 バスルームといっても、トイレと蛇口が三つあるだけ。
 水しか出ないが、ここ南国ではそれでも十分であるらしい。


Bhagavan Sri Ramana Maharshi

 ラマナ・マハルシ。
 「マハルシ Maharshi」ではなく、「マハリシ Maharishi」と表記される場合も多いが、ここではアシュラムの表記に従って、マハルシとする。
 正式には、「Bhagavan Sri Ramana Maharshi」。アシュラム内の人々は、敬愛を込めて、Bhagavanと呼ぶ。
 Bhagavanとは、「Almighty Lord」という意味だそうだ。
 これで思い出すのは、Osho の旧称「Bhagwan Shree Rajneesh」。
 おそらくOsho もラマナが好きだったのであろうか。
 
 拙訳『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』第一巻『内なる宇宙の発見』に収録されている技法第九番、「死んだように横たわる」について、Osho は次のように語る;

 ラマナ・マハリシは、この技法によって開悟した。〈中略〉。ある晩、突然ラマナは ― ごく若い頃、十四か十五歳の頃だった ― 自分が死んでいくと感じた。「死に乗っ取られた」と確信した。身体を動かすことができなかった。麻痺してしまったかのように思われた。それから突然、息が詰まるような感覚があり、そのときまさに心臓も止まると思われた。〈中略〉。少しづつ身体が硬直してきた。身体は死んだ。だが奇妙なことに、身体が死んだことはわかったが、自分がそこにいて、自分が死んだことを知っていたのだ。彼は知っていた――自分は生きている、だが身体は死んだ……。そして彼は戻ってきた。朝になって身体は回復したが、戻ってきたのは同じ人間ではなかった。彼は死を知った。彼は意識の新しい領域、新しい次元を知った。
 彼は家を出た。その死の体験は彼を完全に変えた。そして彼は、現代にはきわめて稀な、開悟した人間のひとりとなった。

 タミル州の南部に生まれたラマナは、Osho の述べるような死の体験を経て変容し、ほどなくして家を出て、ここアルナチャラへと向かう。
 以後50年ほどこの地にとどまり、その最後の20年間はこのアシュラムで過ごしたという。
 世を去ったのが今から55年前の1950年。
 そして今、彼を慕う人々が住まい、そして世界中から集まってくる。

 アルナチャラ山の南麓にあるこのアシュラム。
 広さはOshoコミューンの旧敷地くらい、すなわち日本で言うと公立学校の敷地くらいであろうか。
 そこにラマナの霊廟、小講堂、食堂、事務・書店棟、宿泊棟など、様々な施設がある。

 ここにはラマナの後継者はいない。
 従って教えを説く人はいない。
 その点はOsho コミューンと同じだ。

 際だった違いは、瞑想とかセラピーといったプログラムが一切ないということだろう。
 ラマナの霊廟と、それに隣接した小寺院で、日に何度か儀式が行われる。
 バラモンたちによる読経とか、ヴェーダの朗唱とか。

 ラマナ自身がバラモン階級の出身で、シヴァ神と深いつながりを持っているから、ヒンドゥー色も濃い。
 ただシヴァ自身はヒンドゥー教以前のインダス文明由来の神らしいから、きっとそれ以上のものがあるのだろう。
 ともあれ、そうした儀式が執り行われるが、それは自由参加である。

 ところで、私はかねてよりラマナに親しみを感じていた点がある。
 それは彼のファッションだ。
 彼は生涯、褌ひとつで暮らした。
 それも、日本で言う「もっこふんどし」、すなわち前垂れのないシンプルなものだ。
 私も盛夏になると家の中では褌一丁で暮らすが、あれは実に気持ちいいものだ。
 ラマナと同じ褌が欲しいと思い、近所の商店で聞いてみたが、既製品はないという。
 あれは乞食か行者の着用するもので、手作りなのだという


食事

 このアシュラム唯一の公式行事といえるのが、おそらく食事であろう。
 これはめちゃ楽しかった。

 朝、昼、晩と時間が決まっている。
 鐘が鳴ると、アシュラムの真ん中にある食堂に皆が集まる。
 なんにもないホールだ。
 新旧ふたつに別れていて、旧館の床はおそらく砂岩、新館は花崗岩だったと思う。
 中に入ると、その石の床の上に、葉っぱの皿が整然と並べられている。
 多くの場合、40cm四方ほどに裁断したバナナの葉っぱだ。
 そのフレッシュな緑が美しい。
 入場順に、奥からつめて、葉っぱの前にあぐらをかく。

 ほどなく、係の人がバケツをもって厨房から現れる。
 そして、トングやおたまで料理をすくっては、端から葉っぱの上に載せていく。
 朝だと、これがたいがいイドリだ。
 イドリというのは米の粉からできた蒸しパンみたいなもので、直径8cmほどの円盤形。
 みんな二つとか三つとか希望の数を言って、葉っぱの上にのっけてもらう。
 じつはこれ、私の大好物。
 五つ欲しかったのでヒンディー語で「パンチ(五つ)」と言ってみたのだが、四つしかもらえなかった。
 四つが上限なのか、それともヒンディー語が通じないのか、今となっては定かでない。
 以来、ちょっと遠慮して、四つだけもらうことにした。

 昼や夜には、ほんとにいろんなものが出る。
 馴染みのない南インド料理なので、叙述するのも難しい。
 主食は米で、そこに様々なものが添えられる。
 そしてとにかくウマい。
 得体の知れないチャツネが出てきて、試しに口に入れてみると、これが超美味だったりする。

 食器は皿とカップだけで、あとは何もない。
 インド人も西洋人も、みんな手で食う。
 これがまた新鮮でおもしろい。
 一度それに慣れると、スプーンやフォークを使うのが、なにやら食品と隔絶されたみたいで味気ない。
 あわてて食べると指に火傷をしたりして、それも滅多にない体験だ。

 別に私語禁止というわけではないが、みな静かに食事をする。
 日によって違うが、百人から二百人の人々が一堂に会しての大食事会だ。
 アシュラム滞在者のみならず、街の人々も来訪して一緒に食べたりするようだ。
 うらやましい。
 もしこれが東京だったら、私もきっと週に一度は来訪して、一緒に食べるであろう。

 我々に馴染みのインド料理というのは、パンジャビ・スタイル、すなわち北インド料理だ。
 南インド料理の特長は、米が主食で、油気が少なく、サラッとした感じ。
 私的に言うと、北インド料理よりウマいかもしれない。
 私は常々インド料理が好きで「これぞ世界一」だと思っていたから、南インド料理は超世界一なのかもしれない。


アルナチャラ山

 アシュラムはアルナチャラ山の南麓にある。
 この山はシヴァ神の化身だと言われている。
 ラマナはこの山の存在を知る前の幼少時から、「アルナチャラ」という名前に神秘的な親しみを持っていたらしい。
 おそらく前生、このあたりで修行していたのであろうか。
 ラマナは今生、ほとんど修行らしきものもせずに、前述の神秘体験を経て、悟ってしまう。
 前生の修行の賜物だ、とOshoはのたまっている。

 平地から伸び上がる、非常に印象的な山だ。
 標高は800m。
 それほど巨大な山ではなく、英語では hill と表記されることもある。

 私は地質学の専門家ではないが、見たところ、この山は花崗岩でできているようだ。
 実はこのあたり一体、こうした山々が、ポツンポツンと屹立している。
 インド亜大陸の南半分を占めるデカン高原は、先カンブリア時代に形成された岩石を主体とするらしい。
 すなわち、5億年以上も昔の時代だ。
 こうした花崗岩の山々も、そうした最古の地質時代の生き残りかもしれない。
 花崗岩の主成分のひとつである石英は水晶と同じ成分であるので、太古の何かを保持しているのであろうか。

 12万の人口を擁するここティルヴァンナマライの街は、アルナチャラ山の東側に拡がっている。
 街から眺めるアルナチャラの山は、中腹から上が切り立つような勾配となり、シヴァリンガを思わせる。
 リンガというのはそもそも男根像で、シヴァ神はしばしばリンガによって象徴される。
 山の東南麓には、南インド屈指の大寺院、アルナチャレシュワラ寺院が聳えたっている。


ギリプラダクシナ

 アルナチャラ山を巡る修法に、ギリプラダクシナというのがある。
 お山の周囲を裸足で一周するもので、外回りと内回りの二つがある。
 外回りは山の周りの一般道を歩き、内回りは山裾の小径を歩くらしい。

 外回りは行程14km。
 アシュラムの前の道がその一部になっている。
 けっこう交通繁多な道路で、あまり趣がない。
 こんなところを裸足で14kmも歩くのかと考えると、ちょっと勇気がいる。
 きっと昔はのどかな田舎道だったのであろう。

 ともあれ、ものは試しと、ある日の昼食後、ポケットマネーだけルンギ(腰巻)にねじこんで、ギリプラダクシナ外回りに出かける。
 気候はほとんど日本の夏であったから、ルンギがちょうどいい。
 ホントはラマナみたいに褌一丁で行きたかったのだが、サドゥー(行者)も含めて、そんな格好をしている人は今どき誰もいない。
 昼食後を選んだのは、夕食までの間がかなり長かったからだ。
 しかしこれは誤りであった。
 やはり早朝に出かけるのが正解であろう。

 2kmほど歩くと、道が右に折れ、静かな田舎道になる。
 車もほとんど通らず、木陰を渡るそよ風が気持ちいい。
 道の脇に設けられたベンチには、午睡をむさぼるサドゥーたちの姿。
 みなこの聖山を目指してやってきたのだろう。
 熱帯の太陽にアスファルトが焼かれて熱い。
 それで、できるだけ道路脇の砂地を選んで歩く。
 しかし小石を踏んだりすると痛いので、注意が必要。
 ふだん鍛えてないから、足裏がヤワなのだ。
 右手にはいつもアルナチャラの山があり、そして刻々と姿を変えていく。
 喉が渇いてきたので、行商の兄ちゃんから椰子の実を買って飲む。
 7ルピーとか言われたが、細かいのがなかったので5ルピーにまけさせる。

 気持ちいい道だったから、歩くのは別に苦にならない。
 ただ、足裏が消耗してくる。
 熱い路面を歩いたりするから、なおさらなのであろう。
 ヒリヒリしてきたので、休憩の必要を感じる。
 そこで沿道の小さな店に寄り、飲みたくもない7up を頼む。
 サリー姿の若女将(おかみ)が洗濯の手を休め、やや面倒くさげにボトルと釣り銭をこちら渡す。
 パラソルの下に座って、両脚を投げ出し、通りを眺めながらゆっくりとボトルを空ける。

 外回りを半周ほどすると、のどかな田舎道も終わり、徐々に交通量が増えてくる。
 3/4周ほどのところで、道はティルヴァンナマライの街中へ入っていく。
 車や人の往来は繁く、道の両側には建物がひしめきあう。
 全然美しくないし、気持ちもよくないのだが、路面が冷たかったので歩行は楽になった。
 よく観察してみると、街を歩く人々の2〜3割は裸足である。
 やがて道は中心街へと入っていく。
 初めて間近に見る南インドの繁華街だ。
 すっかり物見遊山の気分になる。

 こぎれいなレストランを見つけたので、ティータイムをしようと中に入る。
 こちらは裸足だが、レストランのマネージャーも裸足である。
 先客がひとり、バナナの葉っぱに盛られたミールス(定食)を食べている。
 うまそうだったので、まねをして頼む。
 二度目の昼食であったが、無類に楽しかった。
 値段にして18ルピー(90円)。

 繁華な街を更に進むと、やがて前方にアルナチャレシュワラ寺院の大伽藍が現れる。


アルナチャレシュワラ寺院

 ギリプラダクシナのハイライトは、アルナチャレシュワラの大寺院。
 というか、おそらくはこの寺院が、この周回路の始点でありまた終点なのであろう。

 東側の正門である東ゴプラが、周囲を圧するように聳え立つ。
 高さ61m、11層の東ゴプラは、全面、石造彫刻で埋め尽くされている。
 この地方の創造性のすべてがここに込められた、とも思えるような建築物だ。

 ゴプラをくぐって境内にはいると、右手に「千柱廊」と呼ばれる大きな建物がある。
 その一画の地下に、パタラ・リンガが祀られている。
 かつては荒れ果てた暗黒の小さな地下祠で、若きラマナがここでサマーディに入っていたそうだ。
 今はラマナ・アシュラムの手でこぎれいに改装されている。
 残念ながらそのときは中に入れなかった。

 ふたつ目のヴァララ・ゴプラをくぐると中陣に入る。
 ここには池などがある。
 次の門、キリ・ゴプラをくぐると、内陣だ。
 外陣や中陣に比べると、ここ内陣は掃除もゆきとどいて清々しい。
 前庭の奥に本殿がある。
 ここに本尊であるリンガ、シヴァ・アルナチャレシュワラが祀られている。
 ここはヒンドゥー教徒の聖地であるから、異教徒が興味本位で立ち入るのは慎むべきであろう。
 私も通常、そうした野次馬趣味は持ち合わせていない。

 ただシヴァ神はヒンドゥー教を越えた普遍性を持っている。
 そして私はここ数年、アジズやフーマンを通じてシヴァ神とはご縁を頂いている。
 というわけで私も、ヒンドゥー教徒の群に混じって本殿へと入る。
 本殿の内奥、子宮を意味するガルバという薄暗い小房に、アルナチャレシュワラが祀られていた。
 黒色のリンガだ。
 かつて若きラマナは、故郷の南タミルを出てアルナチャラに着いたとき、まず大寺院に赴いてこのリンガを抱擁したという。
 バラモン僧が二人ほど、リンガの周りで仕えている。
 シヴァの信徒たちは供物を僧に手渡し、そして僧はまたそれをプラサード(賜物)として信徒に与える。
 信徒たちはぬかづいて石の床に額をつけ、ガルバ(小房)を去って行く。

 本殿を出て、前庭に戻る。
 後ろを振り返ると、本殿の背後にアルナチャラの山が鎮座している。
 やはりここから見る姿が、いちばん美しいようだ。
 寺務所であろう建物の石段に腰掛け、しばし本殿とお山を仰ぐ。
 すっかり「アルナチャレシュワラ」の気にあてられた感じだ。
 どこからともなく、「オーム・アルナチャレシュワラヤ・ナマハ」というマントラが聞こえてくる。
 「あれは何か」とバラモン僧に聞くと、テープだという。
 売店に売っていたので、一本買い求める。

 寺院からラマナ・アシュラムまでの2kmほどが、道中いちばんつまらない区間だ。
 交通量が多く、かといって繁華街でもないから、ホコリっぽいばかりで、遊山の余地もない。
 寺院の裏から山裾をたどってアシュラムに通じる遊歩道があるので、そのルートで戻るのが正解であろう。


山中の小径

 このアシュラムは、開かれた修道院のようなところだ。
 我々のようなゲスト滞在者は、食事時間のほかは、何も規定がない。
 公式プログラムもなければ、エンターテイメントもない。
 みんな静かだから、あえて社交に励む必要もない。
 外出は自由だが、外で遊び回っていたのでは、ここに滞在する意味もない。
 そこでゲストはひたすら修養に励むことになる。

 いちばん静かに坐れる場所は、瞑想ホールだろう。
 ここはかつてラマナが教えを垂れていた場所だ。
 三十畳ほどの広さであろうか。
 入って左側に、ラマナの使ったカウチがある。
 早朝から夜八時半まで開放され、人々が静寂の中に坐っている。
 その時間内であれば、昼休みを除き、いつでも入室して坐っていい。

 実は、このような場所は、プーナのOshoコミューンには無かった。
 あれだけたくさんのホールや部屋がありながら、自由に出入りできて静かに坐れる場所というのが、意外なことに無いのだ。
 何のプログラムもない場所だからこそ、存在する空間なのであろうか。
 そしてこの瞑想ホールには、ラマナの香りが満ちている。
 静かに坐るには格好の場所だと言えよう。

 前節の最後にも書いたが、アシュラムの裏口から大寺院に通じる2kmほどの山道がある。
 その道中、大寺院のちょっと手前の山中に、ラマナゆかりのスポットが二つある。
 スカンダ・アシュラムとヴィルパクシャ洞窟で、いずれもかつてラマナが住まい、そして弟子達の集った場所だ。
 今もラマナアシュラムの手によって、きれいに維持管理されている。
 アシュラムの瞑想ホール同様、静けさがみなぎり、いつでも中に入って瞑想できる。
 山の中腹だから眺めが良く、木陰を渡るそよ風がすこぶる気持ちいい。

 この山中の小径もアシュラムによって整備され、石が敷かれている。
 だから我々のヤワな足でも、靴なしで歩けるのだ。
 裸足のままアシュラムを出て、美しいアルナチャラの山を望みながら、適度な起伏のある歩道をたどる。
 これはまたとない経行(きんひん)路だと言えよう。
 途中、あちこちにゴロゴロころがる花崗岩の大石の上で坐るのもいい。


聖山の頂へ

 ギリプラダクシナには内回りというのもあるらしい。
 山裾の道なき道を歩くのだろう。
 案内人なしでは難しいという。
 アシュラムの書店でちょっと聞いてみたところ、危険だと言われる。
 そう言われると行ってみたくなるのが人情。

 アシュラム裏口から山中の小径を辿ると、ほどなく径が左右に分かれる。
 普通は右側を進むのだが、左に折れればキリプラの内回りではないか、と勝手に推測。
 ある日の朝食後、Shaktiと連れだって小径を歩き、分岐点を左折する。
 メインの小径ほど整備されておらず、しばらくすると敷石もなくなる。
 とても裸足で歩けるような道ではないから、靴を着用する。
 ほとんど人も通らないのであろう、径(みち)というより踏み跡だ。

 しかしどうも様子がおかしい。
 山裾を辿るというより、登りが続き、どんどん山中に入りこんでいく。
 山中といっても、高木はほとんどないので展望が効き、迷うことはない。
 どうやらこれは周回路ではなく、登山路らしい。
 そこで今回はアルナチャラ登山に切り替える。

 アルナチャラの頂を目指すには、普通、大寺院の裏手から登る。
 山の東南口で、男の足で2〜3時間と言われる。
 対するに、私たちの辿っている道は山の西南。
 ほんの踏み跡だから、途中で大石にでも出くわすと、その先を見つけるのが難儀だ。
 ただ刻々と高度を上げるから、振り返ると美しい眺望が広がる。
 山の西側だから午前中は日が当たらず涼しいし、街に面していないので静かだ。
 別に急ぐ旅でもないので、景色を楽しみつつ、休み休み登る。

 八合目あたりだろうか、二時間ほど登ったところに、花崗岩の大石が横たわっている。
 三畳敷きほどもあろうか。
 昼寝には格好の場所だ。
 眼下はるかに、大寺院を始めティルヴァンナマライの街が広がる。
 ただその眺望とともに、街の騒音も伝わってくるのであるが…。

 この大岩を過ぎると、ほどなく表口の登山路と合流する。
 表口といっても、やはりゴツゴツした道なき道だ。
 ただ我々の「裏口」と違うのは、ところどころにゴミが散乱しているところ。
 あまり美しくないのである。

 頂上の手前に、何人かの若者がタムロしている。
 なんでも頂上にグルがひとり住んでいるらしく、その弟子達らしい。
 何やら騒々しい連中である。
 私たちの姿を見ると、ひとりが寄ってきて、「グルに会いたいか」と聞くので、「ノー」と答える。
 「では山頂を案内してやろう」と、勝手に先だって歩いていく。

 山頂では毎年、シヴァの大祭の折、ギーを燃やしてかがり火がともされるという。
 ギーというのは精製バターだ。
 おそらく千年の上も、そうしてギーが燃やされてきたのであろう。
 花崗岩の山頂は、そのギーの燃えかすで、真っ黒く、そしてベタベタしている。
 すぐ下にはグルの住居であろうテントがブルーシートでしつらえられている。
 聖山のてっぺんであるが、要するにあまり美しくないのだ。
 ただ独立峰であるから、その眺望は見事である。
 とくに街とは反対側の田園風景が美しい。

 しかしベタベタまっ黒だし、若者らは騒々しいし、とても静かに坐るという雰囲気はない。
 そこで早々に頂上を去ることにする。
 下山は表口をたどる。
 これはシヴァリンガを直登するような、きつい急坂だ。
 緑の少ない、岩だらけの道。
 山の東南斜面だから、午前中はきっと陽光をまともに受けて暑いに違いない。

 三十分ほども下ると、やがてラマナゆかりのスカンダ・アスラムに出る。
 ここには岩清水があって、飲用も可能だ。
 しばしラマナのエネルギーに馴染んで、それから石畳をアシュラムに戻ってもいいし、更に下って大寺院に出ることもできる。

 というわけで、アルナチャラ登山は、特にお勧めというものでもない。
 どうしても山歩きしたければ、裏口をのんびりたどり、八合目の大石の上で昼寝して、戻ってくるのがよかろう。
 なお、ギリプラの内回りだが、アシュラム裏口から小径をたどり、分岐の手前、左側に大石があるが、そこから左に分け入っていくのではないかと思われる。


おわりに

 以上、簡単なラマナ・アシュラム体験記であった。
 個人リトリートには好適な場所であろう。
 特に、ラマナと波長の合う人には、これほどの場所もあるまい。
 ただ、遊びたい盛りには、つまらないかもしれない。
 それに、ダイナミック瞑想のようなカタルシス系もなければ、ダンスみたいな表現系もない。
 だからまずは、プーナのOsho コミューンでそういうのを存分に体験してくるというのが、オススメのコースかもしれない。
 私個人はと言えば、今回は半ば物見遊山だったが、次は一週間ほどしっかりリトリートしたいという気分。

 
 Om Nama Shivaya
 Om Arunachaleshwaraya Namaha 
 Om Bhagavan Sri Ramana Maharshi
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