オレとOshoのオデッセイ


私が現身(うつせみ)のOshoと出会ったのは1986年。
もう19年も昔のことになる。
その経緯については、かつて「ぱるばか日誌」にちょぼちょぼと掲載した。
あらためて読み直すと、なかなか面白い。
それで今回、それをひとつにまとめ、更に結末の部分を加筆してお届けしよう。
文体がちと若いのだが、ま、ご容赦のほどを。


紀伊國屋にて

 1986年2月11日。
 オレは東京新宿にある紀伊国屋書店に赴く。
 そしてまっすぐ四階の思想書コーナーへ行って、バグワン・シュリ・ラジニーシの本が並ぶ書棚の前に立ったのである。
 さて、どの本を買おうか…。

 もともと大学で西洋哲学をかじっていたオレにとって、このコーナーはお馴染みだった。
 そしてバグワンなる者の著書の存在も、知ってはいた。
 しかしインド人でもあるし、たいしたことはあるまいと、手にとって読むまでにはいたらなかった。
 当時のオレにとって、真理はあくまでも西洋にあるべきものだった。

 それが見事にひっくりかえったのが、アフリカにいるときのこと。
 あれは84年の夏ごろだったかな。オレはナイジェリア北部のサバンナ地方で仕事をしていた。
 当時、日本のM物産が現地州政府との契約で、水井戸掘りのプロジェクトを遂行していた。
 オレはその事務要員としてキャンプ暮らしをしていたのだ。
 乾ききった草原のまっただ中にあるキャンプで、仕事といえば、たまに英語で報告書を作るだけ。
 けっこうな閑職だった。
 それで本でも読もうかと思うのだが、キャンプの小さな書棚にはたいした読み物もない。
 仕方なく手にとったのが、岩波文庫の『般若心経』。
 普通だったら読まないんだけど、まあしょうがねえやと思って、つらつらページを繰ってみる。
 すると、これが驚いた。
 西洋思想がもしかしたら来世紀あたりに到達するかもしれない地点に、なんとこの小さなお経は二千五百年前に到達しているではないか!?

 それで翌年、日本に帰ってきて、その東洋の叡知に導いてくれる人を探し始めたというわけ。
 ダライ・ラマとかカスタネダとかグルジェフとか、いろんな人々の本を漁って読み、手探りで探求を始めるのである。
 そうした書物のコーナーには、きまってバグワンの著書も数冊あった。
 でも、なんとなくイカガワシそうに思えて、やっぱり手にはとらなかった。

 数ヶ月間のリサーチの後、これはやっぱりチベットの僧院に入って修道生活を送るのが一番かなと思う。
 それで五反田のチベット文化センターに赴き、とあるチベット僧からチベット語を学び始める。
 これが86年初頭。
 でもやっぱりバグワンなる人物がつらつら気になる。
 かくしてその日、紀伊国屋書店に行ったというわけ。

 書棚にはOshoの本がいろいろ並んでいた。
 さあどれを読もうか。
 で、目に入ったタイトルが『セックスから超意識へ』

 チベット語をある程度マスターしたら、インドなりチベットへ行って、チベット仏教の僧院に入るつもりだった。
 そして悟りを開くまでは、出てこない。
 そしてもちろん、セックスなんかもしない。
 ところが、このブックタイトルときたら…。
 よーし、じゃ、チベットに行く前に、このバグワンなる人物がセックスについてどう語っているか読んでやろう…と思ったわけ。
 それでその本を購入したのである。
 (余談だけどこの本、現在絶版になっていて、古本がAmazonで7800円もしている!)


めっかった!

 当時オレは吉祥寺に間借りして住んでいた。
 新宿から吉祥寺までは中央線で一本だから、おそらく車内であのソフトカバーの薄目の本を開いていたに違いない。
 アフリカで一年働いてかなりの金ができていたから、オレは働いていなかった。
 そしてひとりで住んでいた。
 だからきっと、その夜も、翌日も、ずっとその本を読んでいたに違いない。

 とにかくびっくりしたわけだ。
 禁欲をしない限り悟りには到達できないと思っていたのに、この先生ときたら、まさに文字通り「セックスから悟り」への道を説いているではないか。
 へ〜、禁欲しなくてもいいのか…!

 とにかくオレは近々チベットの僧院に入門し、悟りを開くまで禁欲するつもりだったのだ。
 もちろん、当時ガールフレンドもいたし閨房の営みについても人後に落ちるものではない ― 。
 が、ともかく、チベットに行ったらいっさいヤラナイという覚悟だった。

 でもな〜、そーゆーのって、アリなのかなあ。
 今はさんざん致しながら、チベットへ行ったらいっさいやりません、てなわけにいくのか!?
 オレはおそらく、そうゆう無理無体に薄々気づいていたのだろう。
 それであの本を選んだのだ。

 その本を読んで、とにかくショックを受けたわけだ。
 内容もさることながら、なによりその言いっぷりがカッコいい。
 その醸し出す雰囲気が気持ちいい。
 顔写真もなかなか…。
 オレはこのバグワンなる人物に、いっぺんで魅了されてしまうのである。
 師とするならこの人しかない!

 めったやたらな人物を師とするわけにはいかない。
 オレも今までいろんな人々の本を読んだし、また大学の哲学科には偉い先生方もいた。
 でも彼らの弟子になろうなんて、てんで思わなかった。
 彼らは学者であって、哲学者ではない…いわんや覚者ではぜんぜんない。
 そんな人々の弟子になって研鑽を積んだところで、大学で哲学を講じるのが関の山。
 聴講の学生たちはと見れば、単に単位を得るためにじっと退屈を堪え忍んでいるばかり。

 で、その本『セックスから超意識へ』の巻末には、日本にあるラジニーシ瞑想センターの住所が掲載されていた。
 それでオレはさっそく、そこに出ていた東京目黒のイア瞑想センターに電話をかけ、翌日出かけていったのである。
 2月14日のことだったかなあ。


瞑想センターにて

 センターは東横線の都立大学駅近くのマンションにあった。
 けっこう広々していて、明るい感じ。
 センターというより、小さなコミューンだ。
 いろんな人々が出入りしていた。

 受付で応対してくれたのが、スワミDであった。
 このバグワンという人に会いたいんだと言ったら、実は今どこにいるのかわからないという答え。
 ちょうどアメリカを追放されたときだったのだ。
 そしてDはバグワンのビデオをひとつ見せてくれた。
 「Way of the Heart」というオレゴン時代のセレブレーションっぽいビデオだ。

 新参者にどんなビデオを見せるかってのは、けっこう大事だと思うのだが…。
 当時オレは、やっぱり今みたいな坊主頭に近い短髪で、着衣なんかにもあまり頓着していなかった。
 チベットの僧院に入ろうなどと意気込んでいた頃だったから、何となく修行僧的な風貌だったんじゃないかと思う。
 そんなヤツに「Way of the Heart」を見せようってんだから、Dもなかなかの根性だと思う。
 オレはそのビデオを見て、こりゃ来るところ間違えたかなと思ったもんだ。

 瞑想道場というのは、オレの想像の中では、師の周りで弟子たちが静かに瞑想に励むものだった。
 ところがこのビデオときたら、師の周りで若い男女がポップな音楽にあわせて踊っている。
 そしてその師たるや、周囲に女をはべらせロールスロイスなんぞに乗っているではないか!
 悟りを開いた師たるもの、ロールスロイスなんか乗っちゃいけないのである。
 粗末な衣に身を包み、杖にすがって、ヨロヨロと歩くもんだ。

 ま、そんな感じで多少ショックを受けたものの、もちろんそんな程度のことで、「この人の弟子になろう」という気持ちは揺るぎはしない。
 とにかくまずは、バグワンの本を買って帰ろう。
 なにか瞑想法について語っている本はないかと尋ねたところ、Dは奥から洋書を五冊持ってきて、机の上に積み上げる。
 本の大きさはマチマチだったが、これはひとつのシリーズで、バグワンが瞑想法について詳しく語っている講話集だという。
 初めて来た人間にいきなり原書はないだろうとご遠慮申し上げたのだが、これが今から思うと『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』シリーズだったのだ。
 後でオレが全巻翻訳する巡り合わせになるとは、神のみぞ知るところである。

 とりあえず、プラブッダ訳の『存在の詩』と『究極の旅』、それに『オレンジブック』を買ったかと思う。

 「この人の弟子になりたい」と言うと、それならまず三週間ダイナミック瞑想をやりなさいと言われる。
 毎朝七時からここでやっているんだそうだ。
 それでオレは、さっそく翌朝あたりから、まだ暗いうちから起き出して、センターに毎日通ったものである。

 これはみんな経験することだろうが、最初のダイナミック体験ってのは、言語に尽くしがたいものがある。
 なんでオレはこんなことしなきゃなんないのか…って感じ。
 しかしこれをしないと弟子にしてくれないらしいから、毎日早起きしては通うのだった。

 そんなある日、いつも通りセンターに行くと、行方不明だったバグワンが今ギリシアにいるとの情報が入る。
 ギリシアと聞いてオレは色めきたった。
 というのも、オレにとってギリシアは自分の家の庭みたいなものだったからだ。
 1979年の初旅行以来、今までに何回訪ねたかわからない。

 ギリシアのどこにOshoがいるのかは分からなかった。
 しかし、そんなことはどうでもいい。
 行きさえすればどうにかなる! という確信があった。

 幸いカネとヒマのあった当時のオレは、すぐさま馴染みの旅行代理店に電話をして、アテネまでの航空券を予約するのである。
 そして1986年2月28日、成田発カラチ行きパキスタン航空機の機上の人となるのであった。
 Oshoを知って17日後のことだ。


ギリシアへ

 なぜパキスタン航空だったかというと、当時、南回り欧州線で一番安かったのがこの航空会社だったからだ。
 南欧大好き人間であったオレは、よくこの航空会社の世話になったものだ。
 このときは乗り継ぎが悪く、カラチの空港ホテルで二泊することになる。
 ダイナミック瞑想を始めてまだ三週間たっていなかったから、もちろん毎朝ホテルの自室でひとり瞑想に励むのであった。
 そして3月2日、カラチからアテネ行きの便に乗り込む。

 実は、オレがOshoと初めて出会ったのが、このパキスタン航空アテネ行きの機内だったのである。
 それは更に七年さかのぼる1979年の話である。
 大学を出たての22歳の年、とにかくヨーロッパを見たかったオレは、卒業式も出ずにパキスタン航空に乗り、とりあえずギリシアに向かうのであった。
 やはりカラチで乗り換え、アテネ行きの飛行機に搭乗すると、隣に座っていた男が、分厚い本を見せてくれたのである。
 バグワンというインド人の本だという。
 ただオレは当時インドなんて眼中になかったので、あんまり興味が沸かなかった。
 なんだこの本……横書きで、やたらに改行が多くて、紙質のあまりよくない本だなあ…という印象くらいしかなかった。
 でもバグワンという名前とあの顔写真はしっかり記憶に残ったのである。
 そうしてアテネに着いた22歳のオレは、まずクレタ島に船で渡り、一月ほど島内をめぐり歩くのである。

 その七年後の一九八六年、奇しくも同じパキスタン航空のアテネ行きで、その本の主バグワンに会いに行こうというのである。
 1986年3月2日の早朝、オレはカラチからアテネへ向かう機上の人となっていた。

 Oshoがギリシアのどこにいるかは知らなかった。
 おそらくはアテネのどっかでのんびりしてるんだろう。
 アクロポリスの丘の下に広がる旧市街プラカ。
 そのくねくね曲がった街路を、お付きの人二三人を連れてそぞろ歩くOsho。
 そこにバッタリ出くわしたオレは、Oshoの前にひざまずき、弟子にしてもらう…。
  ― そんな場面を想像していた。


アテネにて

 そんなファンタジーを載せたパキスタン航空機は、やがてアテネの空港に向かって降下を始める。
 雲間からは、茶色い岩礁にくだけるエーゲの波頭がのぞく。
 ほどなく飛行機は、アテネ郊外にあるヘレニコン国際空港に着陸。
 その七年前、オレが始めて異国の地を踏んだのもこの同じ空港だった。
 イミグレで「ΕΙΣΟΔΟΣ」のスタンプをもらって、ロビーに出る。

 するとさっそく向こうから、オレンジ色の服を着て数珠を下げた一団の人々がやってくる。
 一目見てどんな輩かわかる。
 バグワンに会って本国に帰る連中だろう。
 当時、Oshoの弟子達は、みなオレンジ色の服を着て、首から数珠を下げていたのだ。

 おそらくドイツ人かなんかだろうが、オレは彼らのもとにつかつかと歩み寄って、一言、尋ねる。
 「Where is he?」
 すると相手は答える。
 「He is in Crete」
 クレタ島といえば、オレの庭中の庭だ。
 「Where in Crete?」
 「Agios Nicholaos!」
 会話はこれだけで終わった。
 それで十分だった。

 クレタ島のアギオス・ニコラオス。
 オレはその街を知っていた。
 7年前の1979年、一月ほどクレタ島に遊んだオレは、最後に島の東端にあるこの港町アギオス・ニコラオスに流れ着く。
 その港から船に乗って、北のサントリーニ島へと向かったのだった。

 そこまでわかったら、もうこっちのもの。
 たいして大きな街じゃないから、行きさえすれば、Oshoの居場所はつきとめられるはず。
 ちなみにアギオスとはギリシア語で「聖」、アギオス・ニコラオスとは「聖ニコラス」つまり「サンタ・クロース」のことだ。

 そこでとりあえず、アテネの街に出る。
 空港からは市心に向かってひんぱんにバスが出ているから、簡単なものだ。
 20ドラクマ払ってバスに乗りこむ。
 樹木のあまり生えていない石灰岩質の荒涼な台地を走り抜けること数十分。
 やがて、はるか左手上方にアクロポリスの丘が見えてくる。
 その上に鎮座するのは白亜に輝くパルテノン神殿。
 二十数世紀の歳月によってすっかりアクが洗い流され、今はひたすら美しい。

 そしてバスはシンタグマ広場に到着する。
 アテネのまさに中心だ。
 付近には旅行エージェントが並んでいる。
 そのうちのひとつに飛び込み、飛行機便をチェックする。
 七年前はピレウスの港から船で一晩かけて行ったものだが、今回はちょっと張り込んで飛行機だ。
 ちょうどイラクリオン行きの便が午後にあったので、さっそくそれに予約を入れる。

 まだ少し時間があったので、ここはひとまず腹ごしらえと、近くの飯屋に立ち寄った。
 するとまだ若い店のオヤジが、お前はどこへ行くのかと聞く。
 クレタ島だと答えると、クレタで何をするのかと言う。
 バグワンに会いに行くのだ、と答える。
 すると今までのにこやかな顔が急にけわしくなって、「あいつは悪いヤツだ」と言う。

 「どうして知ってるの」
 「新聞に書いてある」
 「だって会ったことないんだろ」
 「新聞にそう書いてある」
 と言って新聞を見せる。
 ところがあいにくギリシア語だからよくわからない。
 新聞を鵜呑みにするのも危険だよと言ったのだが、向こうは全然聞いていない。
 左様この街の民草は、かつてソクラテスに毒人参をば仰がせたのであった。

 アテネもまた、東京やボンベイと同じく、国際空港と国内空港が別々だ。
 昼食後、同じくシンタグマ広場からバスに乗ってアテネ国内空港に行き、オリンピック航空のイラクリオン行きに乗り込む。


一路クレタへ

 かつてオデュッセウスが風浪に弄ばれたエーゲの海をはるか眼下に望みながら、クレタの島にはひとっ飛び。
 その中心都市イラクリオンに着いたのは同日夕刻のことだった。

 ヨーロッパの地図を見てもらえばわかるが、クレタ島は東西に細長い。
 イラクリオンはその西部にあり、アギオス・ニコラオスはその東端にある。
 まだOshoへの道は長いのだ。今日の旅はこのへんで切り上げ、そのへんに宿をとることにする。

 さて夕飯だ。
 その頃オレは、にわかベジタリアンになっていた。
 だから何を食ってもいいというわけじゃない。
 飛行機の中でも、さっきの飯屋でも、ずっとベジ。
 Oshoはきっと敏感な人だろうからして、肉を食ったことがバレてしまって、「お前は弟子にしてやらん」とか言われたら困るのだ。
 (誤解なきように言っておくが、Oshoは実際にはそんなことは言わない)

 さて、ギリシアではレストランのことを「タベルナ」と呼ぶ。
 このタベルナというのは便利なところで、客はまず調理場へズカズカと入っていく。
 そしていろんな鍋に入っている料理を、コレとコレという具合に指さして注文するのだ。
 だいたい何でも口に合うから心配はいらない。
 生野菜が食べたいときにはサラダを注文する。
 青野菜とトマトが皿に盛られて、その上にフェタという山羊のチーズがスライスされて載っている。
 テーブルの上には小瓶に入ったオリーブ油とビネガーが置いてあるから、それをドバドバかけて食べるのだ。
 主食はパンで、それを料理といっしょに食べる。
 パンと水は基本的におわかりが自由だ。
 だからして、金のない若い旅行者がまず最初に憶えるギリシア語といえば、必然的に「プソミ・パラカロ(パンちょうだい)」と「ネロー・パラカロ(水ちょうだい)」になる。

 翌朝早くバスに乗り込んで、今回の目的地、アギオス・ニコラオスへと向かう。
 イラクリオンから二時間ほどの行程だ。
 ときに1986年3月3日。

 アギオス・ニコラオスというのはクレタ第三の街で、島の東部にある風光明媚な保養地。
 まだ春も浅く、普通なら観光シーズンも始まっていない。
 ところがOshoという予期せぬ来訪者を迎え、それを目がけてヨーロッパ中から弟子たちが続々とつめかけてくる。
 その数はおそらく千人にも達しようとしていた。
 こうして街はときならぬ活況を迎え、宿の主人たちはあわてて部屋を掃除して旅人の来訪を待つのだった。

 オレもそんな小さな宿の、海に面した部屋をとって荷物を置いた。
 Oshoの居場所は簡単にわかった。
 街の東のはずれにあるヴィラに滞在しているという。
 そこでさっそくそのヴィラへと向かう。
 宿から海沿いに歩いて十五分ほどだ。

 途中にオルモス・ホテルという洒落たリゾートホテルがあって、そのロビーがOshoインフォメーション・センターのようになっていた。
 Oshoの写真が飾ってあったり、デスクが出ていたりする。
 ヴィラへの道は、そこから山側へと折れていた。
 春の花々が咲く野原を歩いていると、木立の中に建物が見えてくる。
 きっとあれに違いない。
 海を渡るそよ風にのって、マイクを通した和尚の声が聞こえてくる。

 Oshoの滞在していたヴィラは、街から少し離れた、緑豊かな小高い丘の上にあった。
 その丘は一方が鋭く切れ落ちて、ほとんど垂直の崖になっている。
 その遥か下にはエーゲの海が岩とたわむれ、白いしぶきを上げている。
 断崖の上、かなり広い敷地の一角に、その地中海風のヴィラは建っていた。
 後で聞くと、ギリシアの著名な映画製作者の所有になるのだそうだ。
 講話中のこととて、ヴィラの門は閉ざされていた。
 そこでオレはそのまわりの野原をブラブラ散歩していた。
 すると眼光鋭い感じの若いヨーロッパ人が近寄って来て「お前は誰か」と聞く。
 どうやらガードらしい。なんとなくものものしい感じだ。
 怪しい者ではない旨を告げ、いったんその場を離れることにする。

 オルモス・ホテルに戻り、インフォメーション・デスクへと赴く。
 そして、弟子入りしたい旨を伝える。
 すると係りの人がサニヤス申込書を持ってくる。
 それに必要事項を記入して提出すると、あさってテイク・サニヤスだと言われる。
 へ〜、わりかし簡単なもんだな。
 もちろんオレは弟子入りにそなえて、カラチのホテルでも、イラクリオンのホテルでも、毎朝ちゃんとダイナミック瞑想をしていた。
 しかしそんなことはぜんぜん聞かれなかった。
 (聞かれはしなかったけど、翌朝もちゃんとひとりでダイナミックをしたのである)


初めてのダルシャン

 Oshoはそのころ一日二回、朝と夕方に講話をしていた。
 その日の夕方、初めての講話に出席しようと、開始の三十分ほど前にヴィラへ出かけてみた。
 門を通り、路地を抜けると、広々とした前庭に出る。もうかなりの人々がつめかけていた。
 広場の床には石灰岩が敷きつめられ、その向かって左側に、地中海特産のイナゴマメという大きなマメ科の木が枝を広げている。
 その木陰に和尚の演壇がしつらえられている。
 演壇といっても、ちょっと高くなったところに椅子とマイクと照明があるだけだ。
 野外というのがいかにもギリシアらしくていい。
 向かって右側、前庭の尽きるところはもう断崖だ。
 その縁のところに座っていると、遥か眼下には群青のエーゲが広がり、頬をなぶる夕風が心地いい。

 やがて楽士たちの奏でる音楽にのって、Oshoが踊りながら出てくる。
 踊るといっても別に、ステップを踏んだりするわけじゃない。
 ビデオを見たことのある人ならおわかりだろうが、開いた両手を音楽にあわせて指揮者みたいに上下させるのだ。
 そしてそのOshoのまわりを、世話係のヴィヴェックという女性弟子が、うれしそうに踊り巡る。

 実はそんなOshoを見ていて、淡褐色をした巨大な肉の仮面のように見えてしまったのだ。
 変な表現だが、そう見えたんだからしょうがない。
 後日、日本に帰ってラジニーシ・ニューズレターに原稿を頼まれたので、思った通り正直に書いたら、そこんところだけ時の編集長スワミRの検閲にひっかかり、削除の憂き目に遭った。

 そして講話が始まった。マニーシャというグラマーな女性弟子が、(オーストラリア人のくせに)ちょっと気取った英国風のアクセントで質問を読み上げ、それについてOshoが語る。
 オレは生来ボンクラなせいか、この記念すべき講話についてほとんど憶えていない。
 ただ、何かクリシュナムルティのことを話していたな、という記憶はある。

 翌朝は早めに起きだして、朝食もそこそこにヴィラへと向かった。
 できるだけ早く行って和尚の近くに座りたいと思ったのだ。
 そして果たせるかな、オレは和尚のすぐそばに座った。
 まさに砂かぶりだ。
 すぐ目の前に和尚がいる。

 それで思ったのだが、少なくともオレの場合、肉体的に和尚の近くに行ったからといって、突然悟りを開くとか、そういったたぐいの神秘的なことは、どうもないらしい。
 口惜しいことだ。
 それで次の講話からは、広場の一番後ろの縁に座って、遥かにざわめく波の音をバックに、ただのんびりと講話に耳を傾けることにした。


ギリシア的解決法

 昼間は別にすることもないし、海水浴という時期でもないので、海辺や野原を散歩したり、街のカフェでトルココーヒーなんぞ舐めながらときを過ごす。
 地元の英字紙に目を通すと、和尚関連の記事もけっこう載っている。でも調子が妙にシニカルだ。
 ギリシア語の新聞なぞはもっとダイレクトだったらしく、どの新聞もいっせいに、和尚は青少年を堕落させるだの、犯罪者だのと書き立てていたらしい。
 ギリシア人の消息通によると、同国の新聞がひとつのことで一致団結したのは建国以来始めてのことなんだそうだ。
 元来が議論好きな国民だ。
 たしかソクラテスのときにも、アテナイの世論はまっ二つに割れたものだ。

 三月五日の昼下がり、僕らがカフェでトルコ・コーヒーを舐めているちょうどそのころのこと。
 断崖の上にあるいつもは静かなヴィラで、ときならぬ捕り物が行われていた。
 突然二十人ほどの警官が和尚を逮捕にやってきたのだ。
 法的に言って逮捕の理由はない。
 和尚には一ヵ月のヴィザが下りていて、まだ二週間しかたっていない。
 また和尚はヴィラの敷地から外に出たこともなかった……オリーブの葉を食む虫よりも無害な存在だった。
 ところが警官たちは突如、私有地であるヴィラに押し入り、和尚を逮捕連行してしまったのだ。

 結局のところ、このときの「罪状」もまた、ソクラテスと同じ青少年堕落・風紀紊乱だったとゆうわけだ。
 この超法規的かつ超ギリシア的措置のウラには、実はアメリカがあったのだという。


そよ風のごと…

 クレタ島での講話の一節にこんなのがある。

 質問:
 昨夜のお話によると、真のゾルバでないかぎり、人は本当のブッダとして生きることができないということです。それを成し遂げるには、ゾルバの土地であるクレタ以上のところがあるでしょうか。
 あなたはここに友人たちと一緒に長く留まりたいですか。

 Osho:
 私は決して将来のプランを立てない。
 今日は今日で十分だ。
 私はここの人々が好きだ。誰の中にも何かしらゾルバのようなものがうかがえる。
 でも私は決して将来のプランを立てないから、いつまでここにいるかはわからない。
 永遠にいるかもしれないし、
 明日いなくなってしまうかもしれない……
 ちょうどそよ風みたいに、何のプランもなく来ては去っていく。

 その日の夕方、例によって海添いの道をたどり、ヴィラへと向かう。
 しかし、どうも様子がおかしい。
 人々が引き返してくるのだ。
 どうしたのかと尋ねてみると、和尚が警察に連れ去られたという。

 それでとりあえず、情報センターになっているオルモス・ホテルまで行ってみることにした。
 和尚はやはり警察に連れ去られていた。
 そして今はイラクリオンの空港にいるという。
 そして今晩、飛行機でアテネに連行されるのだそうだ。
 今から行けばまだ間に合うという。

 いったい何に間に合うのかよくわからなかったが、ほかにすることもなかったから、それでは行ってみようということになった。
 何人かでタクシーに乗り込んで、イラクリオンへと向かう。
 タクシーは旧式のベンツで、運転手はやはりゾルバみたいな顔をしたオジさんだった。
 けっこう快適な道中だったような記憶がある。

 空港のビルに入って、二階のロビーに上ると、もうサニヤシンたちがいっぱい集まっていた。
 赤っぽい服装をしているから異様にカラフルだ。
 そればかりか、音楽にあわせて歌ったり踊ったりしている。
 自分たちの師が逮捕連行されたというのに、いったいなんという連中だろう。

 そのうち、人々がサッと窓のところへ駆け寄る。
 既に宵闇の降りた滑走路上にポツリとひとつ、オリンピック航空ボーイング737が照明灯に照らしだされていた。
 そのドアに横づけされたタラップを、今、ゆっくりと登っていく小さな人影がある。
 白いローブ姿の和尚だ。

 タラップを登りつめると、思いがけなくも、くるりとこちらの方を向く。
 そして二度三度、手を振る。
 その顔はにっこり微笑んでいる(オレの視力は両眼2.0だ)。
 まるでみんなの見送りに応えるかのように……。
 そうしてその白い姿は機内へと消えた。

 オリンピック航空の飛行機にはみなそれぞれ、トロイ戦争の英雄の名前がついている。
 アキレウスとか、ヘクトールとか、アイアースとか。
 その名前が機首の、操縦席の下あたりに書いてある。
 オレはそれを読むのが習慣になっていた。
 あの夜、和尚を乗せて飛び立ったボーイング737 ― 。
 その愛称を知っているのは、たぶんこのオレくらいのものだろう。
 その操縦席の下には、ギリシア文字で「ΟΔΥΣΕΥΣ」とあった。
 漂泊の英雄オデュッセウス ―。
 当時の和尚の境遇には、また格別にふさわしいものだった。

〈 完 〉             


ホームページ