◆祭りの後(1/22)
◆日本人ミーティング(1/25)
◆オショー Far East
Gallery(1/27)
◆オショー
リサーチ・ライブラリー(1/29)
◆ビート・マヤのパソコン教室(1/30)
◆オショー セレブレーション(1/19)
一年でいちばん大きな祭り、オショー セレブレーション。オショー
が世を去った翌年の1991年から始まり、今年で7回目となる。私はこの祭りには第一回目から欠かさず顔を出しているのだが、「7」という区切りの年ということもあって、今年はいつにない盛り上がりを見せた。
その一番の目玉がカーニバル・パレード。これは第一回目と二回目のセレブレーションでおこなわれたものだが、それ以降は隣近所とのかねあいもあって実施されなかった。だから5年ぶりの復活ということになる。いろんな国やグループが何週間も前から準備に励んでいたらしい。日本人グループは「スペース(宇宙)」というテーマで、宇宙服みたいな衣装に身を固め、テクノ・ミュージックにあわせて踊るのだそうだ。
それとは別にマ・パンタという日本人のおばさまが、マハーカシャパのカーニバル・ゾーンでひとり静かに龍の出し物を作っていた。それを聞きつけた台湾の連中が、直前の18日、ドラゴン・ダンス(長崎のクンチみたいなもの)をやろうということで、日韓台で人員を集め、急遽グループを結成したというわけ。中心人物は胡弓のスワミ・ネトラ(ほんとうは鍼師)。彼はこうした伝統芸にはかなり通じているらしい。
私は屋根の上のパフォーマンスで精力を使い果たし、19日はジャーナリストに徹しようと思っていたのだが、太鼓が必要だということで駆り出されることになる。それで台車の上に太鼓を据え付け、京都のマハスックに引っ張ってもらって、その上でたたくこととあいなった。
〈左写真〉本日昼ごろ、本番前の練習。右端がネトラ。(ナルタナ撮影)
さて明けて本日、パレードのスタートは午後一時。マハーカシャパからオショー
カフェの前を通って外に出て、そこで右折。それからサウス・メーンロードにぶつかって左折、しばらくしてまた左折してバックゲート・ロードに入り、最後にピラミッド中庭に入っておしまいという順路。
一番先頭には弓道師範のアサンガが弓の装束で馬に乗って先導する。私たち極東一家はそのすぐ後ろに続く。
〈左写真〉パレードの先頭。左端が騎乗のアサンガ。
即席のクンチであったにもかかわらず、ネトラの指導のもとに、これがなかなかの見物だったのだ。基本的には軽快なリズムとともに練り歩くのだが、人が集まっているところでは、太鼓と銅鑼と鉦の連打の中、龍が怒涛のごとく身をくねらせて踊るというわけ。けっこう迫力があって、見物客をおおいに沸かせるのであった。
ただ太鼓は私ひとりで、それを何度も渾身の力で連打するわけだから、かなりの重労働。おかげで終了後、一時間ほどは再起不能だった。だから、私たちの後にどんな出し物があったのか見ることができず、従って残念ながらレポートはできない(日本人のテクノ・ダンスも含めて)。
〈写真左〉極東一家のドラゴンダンス。左端に太鼓をたたいている私がいる。
〈写真右〉パレードの終点・ピラミッド中庭。
さて夕方のホワイトローブ。セレブレーション当日は人の出が早いので、あまりのんびりシャワーなんかあびてられない。それでいつもよりかなり早めにブッダホールに入ろう思って出かけたのだが……これが延々と続く白い長蛇の列。まだ6時になっていないのに、メーンゲートからブックショップの前、ラオツの入り口、マルチバーシティプラザ……なんと最後尾はマリアムにまで達しようとしているではないか。こんなのはオショー 在世中にもなかったことだ。こりゃ入りきれないなあ……とか思っていたんだが、でも人間というのはつめればなんとかなるものらしい。かなり窮屈だったけども、みんなで仲良くホワイトローブという具合になった。
いつも楽しみなのがセレブレーション当日のホール内の趣向。今回は数千の三色豆電球が張り巡らされ、それに蛍光ワイヤのオブジェがいくつか。いつもより早めに始まったラテン風のダンス音楽にあわせ、豆電球が点滅し、さながら巨大なディスコの中にいるかのようで、なかなか楽しい。天井から鳥の形をした紙片が何千枚も降ってくる。オショー の引用入りだったが、中心からちょっと外れていた私のところまでは落ちて来なかった。現在の講話シリーズは「Last Testament」といって、オレゴン時代の報道陣との質疑応答。これがけっこうおもしろい。特に今日のインタビュアーだったヤンキー親父は、なんだかオショー に気に入られたみたいで、やりとりがすごくおかしかった。
さて、本日のアフター・ホワイトローブはサニヤス・セレブレーション。百人以上がマラをもらうらしい。私は今これを書いているから見には行かなかったけれども、午後11時半現在、まだ遥か彼方から「オショー !」という絶叫が聞こえてくる。やれやれ、おたがいご苦労様。
〈写真上〉ラオツ・ハウスの入り口
というわけで、オショー 遷化七周年のお祭りも終了。後には心地いい肉体疲労が残った。正面ゲートやラオツ・ゲートにはまだ扇の飾りがほどこされ、祭の残り香をただよわせているが、コミューンはまたひとつ脱皮して、静かな表情を見せている。
そういえば祭を境に、文字どおり、当地の空気も一変する。祭の最中は初夏のような陽気だったのに、最終日の夜中、サニヤス・セレブレーションが終わったとたん、天気が崩れ始めた。きっと寒冷前線が通過したのだろう、かなりまとまった雨が降った。それで翌20日は塵がすっかり洗い流され、適度な湿気と気温(とけだるさ)で、阿片でも嗅がされたごとくの心地よさだった。気温がいっぺんに4、5度も下がって、ホワイトローブ後なんかセーターが必要なくらい。
ホワイトローブといえば、祭が終わって、人もだいぶ減った。もちろんホールはいっぱいになるけれども、前みたいに何度も「つめてください」というアナウンスが入ることもなくなった。これは主に祭に参加したインド人たちが、それぞれクニへと帰ったせいだろう。
ところで、きのうから始まったディスコースのシリーズには驚いた。えらく古いフィルムなのだ。なんでも『ダンマパダ』からのセレクションなんだという。ダンマパダといえば1979年から始まったオショー
最長の講話シリーズ。まだ若々しいオショー
が帽子もかぶらず、白いローブ姿でキビキビと登場し、快調なテンポで話をする。画面はモノクロで、それがまた新鮮だ。でも録音は驚くほど鮮明。昨日は質疑応答の日で、かなり生臭い質問まで飛び出し、なかなかおもしろかった。
ところで『ダンマパダ』シリーズは現在、静岡のソパンが翻訳している。先年、第一巻の訳本が出たんだけど、質疑応答部分がカットされているんだよね。そりゃいけないよ、ソパン。ちゃんと完訳しておくれ。
本日午後4時15分から、プール横の芭蕉ビストロで、日本人のカントリーミーティングがあった。別に何か火急の用件があったというわけではない。毎年、一番人の集まっているこの時期に、顔合わせの意味もあって津々浦々のシェアリングをしようというものだ。チャイとケーキがタダでふるまわれるということもあって、六十余名の人々が参加。なかなかの盛況だった。
チダカッシュから送られてきた東京・有明の国際ブックフェアの最新情報が伝えられた後、南から順にお話が始まる。熊本のタカシ、神戸のヴィジェイ、大阪のトーショ、名古屋のヨーコ&ディクシャント、東京のマハカーシャパ、長野のカルタール、住所不定のミーラ……。一番おもしろかったのがタカシの話だろう。これについては明日特集するけれども、福岡にオショー ファー・イースト・ギャラリーを作ろうというものだった。
画家である長野・小川村在住のカルタールも、今は無人になった北信濃・高山村の温泉湯治場をサニヤシンの手で盛り上げてしまおうという無責任プロジェクトを発表。これもまたおもしろそうなので、追跡取材をしてみたい。
私は最後にインターネットのお話をしたんだけれども……。最初に挙手でリサーチをしてみたところ、自分でインターネットを開けたことのある人は、全体の一割弱といったところで、まだまだお淋しい限り。仕方がないので、「これはバーチャルのブッダ・フィールドとなる可能性を秘めているのだっ!」、と言って啓蒙にコレ努めるのであった。
自分の経営するペンションに九州最大の望遠鏡を据え付けてしまったスワミ・デヴァ・タカシ。そのへんの事情については、アディティヤ編集の雑誌(名前忘れた、ゴメン!)に詳しいので割愛しよう。
そのタカシが、今度は九州の中心地・福岡にオショー のギャラリーを作ろうというのだ。
オショー と瞑想を感じられるスペースがほしい――これはビジネスの世界に身を置く九州のサニヤシンたちの共通の願いであった。そんな願いを胸に、束の間の休暇を取って、日本を後にしたタカシとそのパートナー・ヒロ。当地に着いてからそれが一気に具体的な形となっていくのである。
自分たちのスペースであるとともに、一般の人々にも広くオショー を紹介できる美しい場所にしたいということで、ギャラリー兼インフォメーション・センターという形態をとり、あわせて小さなセッション・ルームを持てれば、というのがタカシの考え。そして場所は、東アジアの玄関口として発展著しい福岡city。できればその目抜き通りに店開きできたら……。奇しくも今、コミューンでは、Far East Connectionが盛り上がっているところ。そこで指呼の先にある韓国、そして台湾にも開かれたものにしようと、その名も オショー Far East Galleryとあいなった。福岡では4月の12日、13日にシュンニョを招いてセレブレーションがおこなわれるが、それにあわせてオープンできたらとタカシは考えている。
しかしながらまだ物件もあたっていないのに、あと三ヶ月弱でどうやってオープンするの? というのが、東京のギャラリーオーナーである私の素朴な疑問なのだが……。でも機運はけっこう盛り上がっているのである。名古屋在住のミュージシャン・ヨーコとディクシャントも、このギャラリーの世話人となるべく福岡行きを決心しているし、ほかにもいろいろ心強いサポートが現れそうで、これはもしかしたらほんとうにできるかも――。
タカシ&ヒロはあと五分後に、コミューン隣りのスンダルバン・ホテルの前からバスに乗ってボンベイへ発つのだけれど、僕は見送りにも行けない。というのも4時半にコミュニケーション・センターが閉まってしまうので、それまでにこれを発信しようというわけ。
オショー Far East
Galleryのこれからの動きについては、タカシが日本からメールを送ってくれることになっているので、このページでも随時紹介したいと思う。日本のみなさんもよろしくご声援を。
〈写真〉タカシとヒロ、芭蕉庭園で(1/26)
Far East Connection の向かいに、オショー リサーチ・ライブラリーがある。昨年6月にオープンしたばかり。その真新しいガラス・ドアには、「In Loving Memory of Mataji & Dadaji」とある。Mataji というのはオショー のお母さん、 Dadajiはお父さんだ。
オショー フランシス・ハウスのこの一室には、かつてオショー の両親が住んでいた。 Dadaji は1979年に亡くなり、そして Mataji は一昨年の5月に世を去っている。そこで後に残されたこの記念すべき部屋を、オショー のリサーチ・ライブラリーに改装すべく、昨年初めから工事がおこなわれていた。
現在、このライブラリーには、オショー の英語講話本、ヒンディー講話本、各国語翻訳など約三千冊が収められている(日本語版も三十数点ある)。また現在品切れになっている本や、初期の古い講話集など貴重な資料もそろっていて、希望者は閲覧できるようになっている。またオショー の全講話を収めた四千五百巻のオーディオ・テープ、全講話のテキストが収められた検索用のCD−ROM、千巻のミュージック・テープ、講話関係の資料などが所蔵されており、グループ・リーダーやライター、翻訳者などがやってきては、自分のワークに役立てている。
パソコンの便利さ(およびその弊害)については、これを読んでいる諸嬢諸兄はよくご存じのことであろう。さて、Far East Connection にも近々、待望のコンピュータが入るそうだ。それで、みんなもそれを使いこなせるようにならないといけない。そこで本日の「マヤのパソコン教室」とあいなった。参加者は日本人ケアの中心となっている人々、ナロパ、マジュヌ、ニーラム、ブーティ(写真には写っていないが)。そして先生はマ・ビート・マヤ…ウィンドウズのマスター・インストラクターである。
コミューンのLANはIBM互換系。そしてFar East では三ヶ国語のOSを入れるということで、ウィンドウズの3.1を使うことになる。そこで今みんなはニーラムの部屋に集まって、彼女の持っているIBM・ThinkPadで日本語版ウィンドウズ3・1のレッスンを受けているというわけ。私はいちおう 日本語版ウィンドウズ3・1も使えるので、これを書きながら、ときどきのぞき見して、「フムフム」とか言っているのだ。
みなさんも経験があるだろうが、初心者にパソコンを教えるというのは、並大抵のことじゃない。かつての自分のことはすっかり忘れ果てて、相手のあまりの覚えの悪さに「こいつほんとに馬鹿じゃないの」とか思ったりしがちだ。しかしさすがにマヤはプロ。マウスの使い方から始まって、じつにていねいに、段階を踏みながら教えていく。マジュヌたちも熱心に学んでいるみたいだから、Far East オフィスと日本との間でデータのやりとりが日本語でおこなわれる日も遠くないと思われる。だから日本のサニヤシンたちも、はやくインターネットに接続して、プーナとホットなやりとりをしてほしいものだ。