インド de インターネット




プロローグ

 インドでインターネットにつなぎたいというのは、昨年(96年)の九月、ホームページを作り始めた頃からの念願であった。
 実は、パソコンもインターネットも、まったくの素人だったのだ。にもかかわらず、このメディアの持つ大いなるフシギに魅せられて、Macのノートを一台購入するやいなや、一月の間に二つものホームページを立ち上げてしまったのである。
 そのホームページというのは、ひとつは我々のビジネスであるテキスタイル関係のもの、もうひとつはここに見るオショー 関係のものだ。どちらもインド国とは不可分の関係を持っているので、是非ともインドから情報発信をしたいと思ったわけ。

 九月にインドのデリーへ行く用事があったので、当地のインターネット事情について多少調べてみた。やはり、まだあまり活発ではなさそう。プロバイダは国営の電話会社が一社だけ、そしてアクセス・ポイントはデリー、ボンベイなど国内主要都市八カ所にあるだけだった。さいわいプーナにもアクセス・ポイントはあるらしい。ただ、接続料は年間一万五千ルピー(約五万円)と、かなり割高。でも必ずしも不可能ではないらしい。

 なによりプーナのオショー コミューンで、あんなに立派なサイトが作られているのだから、インドからの発信もできないわけがないと思っていた。



日本での蠢動(しゅんどう)

 それから帰国して、デジタル・カメラなどを買い込み、ソフトも充実させ、だんだん深みへとはまって行くのである。それと平行して、プーナのスワミ・アムリットやコンピュータ担当のスワミ・シャランなどにもメールを出して、ホームページ発信の可能性を探るのである。

 ところがどうも様子がおかしい。アムリットたちの返信によると、ホームページ発信は難しいだろうということ。
 不審に思って、コミューン・サイト日本語版の編集長であるチダカッシュに聞いてみると、あの立派なコミューン・サイトは、プーナからではなくてアメリカで編集・発信されているとのこと。どうりでコミューンのホット・ニュースなどがあまり載ってないはずだ。

 ともあれインターネットにつながりさえすれば、自分のサイトにファイルが送れるはずだから、乗りかかった舟だ、とにかくやってみよう。
 そこで11月17日発売の最新型パワーブックを買い、メモリも40Mまで増設し、33.6kのモデムカードを装着し、一切合切をパソコン用リュックに詰め込んで、96年12月22日、勇躍日本を発つのである。ちなみに私のパソコンは「孫悟空」という名前。

 おっとその前に、インドでのインターネット・アカウントを手配しないといけない。そこでその半月ほど前、デリーのビジネス・パートナーあてに、私たち名義のアカウントを開設しておいてくれるよう依頼する。申込後一〜二週間で開設できると聞いていたので……。



されどIndia

 みなさんもう知っているよね。インドという国は、運転免許からエンライトにいたるまで、カネさえ出せば何とかなるという感じがあるけど、その実なかなか思いどおりにはいかない所だ。
 特に相手が政府系の事業者だと、もうエンライト以上に絶望的。金は先払いしてあるのに、「一〜二週間」なんてとんでもない。もうじき、もうじき、という言葉だけで、ぜんぜん進展がない。

 もうひとつ技術的な問題点は、電話によっては、孫悟空がダイヤルトーンを認識しないのだ。だからモデムはダイヤルをしてくれない。だから当然、電話線につながらない。
 そこで、「ダイヤルトーンを無視」という設定にしても、何が気にいらないのか、やっぱり「no dial-tone」というメッセージが出てダメなのだ。

 ともあれ、日本にいるとき、さんざん「インドから発信しますね」と宣伝してきてしまったので、とりあえずなんとかしないといけない。そこで孫悟空がダイヤルトーンを認識する電話を使って、国際回線で日本のプロバイダに接続し、ちょっとしたファイルを何度か送って、お茶を濁すのである。



いざプーナへ

 1月4日、プーナに入る。宿はオショー サクシン瞑想センター(東京)のバンガロー。ここには電話があるから、インターネットをやるには便利だ。そこでさっそく接続実験をしてみるが、やっぱりダイヤルトーン不認識。

 ところでプーナのポピュラー・ハイツ通りには、「ゼン・コミュニケーション」という、サニヤシンのやっているオフィスがある。ここはインターネットとつながっていて、サニヤシン相手にメール授受の仲介サービスをやっている(ただし英語のみ)。ここがまたサクシンとつながりがあるので、翌日、孫悟空を抱えて相談に行く。でもMacについてはあまり詳しくないらしく、何だかぜんぜん役に立たない。

 そんなとき、日本のパソコン少年でイエス・キリストの3Dコピーであるスワミ・セトゥーに、アシュラムの花園で出会った。これぞ救世主とばかりに相談してみると、モデム初期化の記号を変えたらトーン不認識の不具合も消えるかもしれないとのこと。つまりトーン無視の記号を加えるというわけ。
 それでゼン・コミュニケーションのコンピュータに設定してある記号を使ってみたんだけど、機種が違うせいかやっぱりだめ。そこで働くスワミたちも、トーン無視の記号なんて知らないという。
 モデムのマニュアルには書いてあるんだろうけど、そこまでは持ってこなかった。それで日本の友人に調べてもらおうと、ローマ字でメールを書いて、 ゼン・コミュニケーションからE-メールで送るのである。

 その夜、孫悟空の中のいろんなファイルを開いて遊んでいたところ、『クラリスワークス4』の通信ファイルの中に、ある初期化記号がひとつ記載されている。ATS0=0V1E0H0X1というやつで、別に「インド用」とも「トーン無視」とも書いてないが、とにかくポツンとひとつだけ例示されていたのである。それで、ものは試しと使ってみたら、見事にトーンを無視して、ダイヤルしてくれたのだ。
 この文字列に何の意味があるかまったくわからないが、とにかくこの記号に、インド滞在中はずっとお世話になるのである。(3/19記)



グルかホトケか

 というわけで、さっそくその初期化記号と、ゼン・コミュニケーションのアカウントを使って、インターネットに接続してみる。心地よいダイヤル音。呼出音の後、例のピーヒョロロというモデム音がする。「きたきた」と期待に胸がはずむ。モデム音が途切れ、「Establish Communication」の表示。あと一息だ。
 ところが、それきり何も起こらないのだ。待てど暮らせど、ウンともスンともいわない。そのうち無情にも、「link dead」という表示が出る。何度やってみても結果は同じなのだ。
 これはきっと電話回線のせいだろうと思って、翌朝、ゼン・コミュニケーションへ行って再度試してみる。しかし、やっぱり「link dead」。彼らのマシンではちゃんと通じるのに、どうして僕のはダメなんだろう……。彼らもやっぱりわからないという。ほとんど役に立たない連中だが、そういえば、「ゼン・コミュニケーション」を邦訳すると「禅問答」になるのだ。

 さすがの私もサジを投げかけたのであるが……。その日の夕方、「ゼン・コミ」の階下で、小さなショップのオープニング・パーティがあった。私もたまたま居合わせたのでちょっと顔を出したら、旧知のインド人スワミ、アサンガに出会う。それで思い出したのである。この人、一年ほど前、東京のオショー サクシンでホームページの立ち上げをしていた人なのだ。ジゴクでホトケたあこのことだ。
 私の置かれた窮状を語ると、スワミジ(インドのスワミたちはお互いこう呼び合う)、ニコッと笑って、まあ私にまかせなさい、とのたまうのである。彼のオフィスはゼン・コミの階上にあったのだ。

 翌日の昼下がり、孫悟空を小脇に抱えて、いそいそとバスワニ・ビルの階段を昇る私。リンゴのマークの貼り付けてある白いドアを開けると、アサンガが迎えてくれる。テラスから差し込むインドの陽光がまぶしい。  
 テーブルの上にはPower Mac と20インチ・モニター。この人はプログラムを組んだり、ホームページのデザインをしたりして、生計を立てているのである。午前中はコミューンのヒンディー語オショー タイムズのデザイン室で働き、午後は自分のオフィスで過ごすという毎日なのだそうだ。(なんかうらやましいよなー)。

 ともあれ、この人なかりせば、「プーナde オショーごっこ」もまたなかったであろう。



初めの一歩

 やはりインドのインターネットは、一筋縄ではいかないらしい。アサンガもその設定には三ヶ月かかったのだそうだ。日本との大きな違いは、接続に「コネクション・スクリプト」を使う点にある。
 日本だと普通、そんなものは使わずに、ダイレクトに接続する。だからその点を知らないと、インドではインターネットにつながらないのだ。

 Macの接続ソフト、Free PPP のアカウント編集を開けてみると、接続のところに「コネクション・スクリプト」という選択肢がある。そこを選んで、スクリプトの編集をする。スクリプト自体はそんなに複雑なものではない。しかるべき欄にしかるべき項目をセットし、しかるべき文字を入力すればいい。もちろん私の場合、手本がなければとてもできない。

 すべての「しかるべき」をアサンガに教えてもらい、孫悟空の中に入れ込む。さらにアサンガ先生は、自分のアカウントも僕に提供してくれたのである。
 そうしてから、モデムを電話線につなぎ、接続してみる。すると、見事、インターネットにつながったのである。
 ブラウザ(ネットスケープ)を起動すると、初期設定で組み込んであるオショー org のサイトが現れ、Today's No Thought のアリガタイ言葉が画面に現れる。ブックマークで私のサイトを呼び出すと、「ぱるばのオショー ごっこ」も現れる。メール・ソフトを起動し、到着メールをチェックすると、メールがざくざく!(十通も来ていた)。プーナで受け取るメールというのは、また何とも味わい深いものがある。

 こうして私のインターネットごっこ in Pune は、バスワニ・ビル最上階の、狭いアサンガのオフィスで、始まるのである。



しからば出陣

 これがプーナに着いて四日目の、1月8日のことであった。

 ところで私は、孫悟空を含めた一切合切を、オフ・ブラックのパソコン用リュックにつめて常時持ち歩いている。この孫悟空は Assembled in Taiwan、このパソコン用合切袋は Made in China ということで、このあたりに今回の「プーナでオショー ごっこ」の伏線もあったのであろう。

 さて8日の午後、初夏のような日差しのもと、合切袋を背負って、アサンガのオフィスから意気揚々とアシュラムに戻るのである。歩いてだいだい7〜8分の道のり。
 メイン・ゲートは入ると、さっそく書店の向こうにあるスワミ・キルティのオフィスを訪ねる。これはプレス・オフィスといって、コミューン関係の広報一切をつかさどるところだ。

 みなさんご存じかどうか知らないが、コミューン内では、やたらに写真撮影をしてはいけないのだ。写真を撮りたかったら、このプレス・オフィスで許可をもらわないといけない。そのオフィスで交付されるマルーン色のバッジを、御老公の印篭のごとく胸につけて初めて、大手を振ってカメラをクリックできるのである。
 私のプーナ通信も写真入りが売り物であるから、このパスは必需品なのだ。幸いこのスワミジ、キルティとは昔から顔なじみなので、わりあい簡単にパスが出る。この手の取材はアシュラムでも初めてだということで、彼も珍しがっていた。(ただ、よく意味がのみこめていなかったようだが)
 パスの上に表記される報道機関名は、「オショー ごっこ」のサンスクリット訳、「オショー Leela」となっていた。
 「いったい何を取材するのか」と聞くから、「たとえば、今日おこなわれるFar Eastのミーティングとか……」と答える。別に特定の取材対象はないのだ。コミューンの雰囲気が伝わればそれでいい。(3月28日記)



Far East Connection

 というわけで、プーナでのホームページごっこが始まるのである。
 私は今回、Far East Connectionオフィスを遊びの拠点としていた。
 このオフィスについては、プーナ到着早々からいろんな人の話に聞いていたのである。

 場所はブッダホールの先、マリアム食堂へ行く途中の左手にある。たとえば、コミューンの正門を東京駅、ブックショップ前のメインストリートを銀座とするならば、ここは神田かお茶の水といった、なんとなく下町っぽい雰囲気のあるところ。そしてコミューンの中心部に位置しているから、屈強のロケーションといえる。
 ただ、オフィス自体はかなり狭い。四畳半くらいのスペースに、日韓台三国のデスクがひしめきあっている状態。僕が訪れた当初は、コーディネーターが神戸のプレム・コマラ。そして日本人では、ラオツ・ハウスの住人であるスワミ・ナロパ、喜多方の元博物館長スワミ・マジュヌ、広島のマ・キショリ、さすらいのマ・バティアといった人々がワーカーとして出入りしていた。
 韓国の中心人物はスワミ・ナシーブ。この人はもう二、三年もコミューンにいて、同国人の面倒をかいがいしく見ている。キムチを作るのがうまい。台湾からはマ・セビタという元気な女の子。現在は台北のセンターをひとりで切り回している。
 基本的には、世話好き人間たちが集まって、それぞれの国の情報センター的役割を果たしている。だいたい極東人は全般的にシャイで英語が不得意だったりするから、こういうオフィスは、コミューンにとってもかなり便利な存在ではないかと思う。

 しかし何といってもこのオフィスの威力は、イベント屋の分野でいかんなく発揮された。どういうわけかお祭り人間たちが集まってくるのだ。
 僕の居た二ヶ月の間に、ちょっと思い出すだけでも、お茶会、音楽バンド、極東ランチ、龍の舞い旧正月茶店韓国寿司雛祭りなど、疲れも知らず、イベントに次ぐイベント。もの珍しさも手伝ってか、それがまたすべて盛況といった具合で、とにかくコミューンに新風を巻き起こしたのであった。(秘蔵写真1・上から見たオフィス前広場の茶店 34k)。その間、私がはからずも和太鼓奏者としてデビューするなど、人々の隠れたクリエーティビティを大いに発掘するのである。(秘蔵写真2・雛祭りで太鼓をたたく私 21k)



プーナの朝

 さて、この孫悟空はMacintoshのPowerBook1400Cという機種。昨年11月17日の売出し日に渋谷のビックカメラへ行って、イの一番に買い求めたものだ。メモリも増設し、かなり高価なものとなった。しかし、やっぱりは具合いい。
 インドでは PowerBookは非常に品薄で、価格も日本の倍くらいはする。クルマの一台は優に買えてしまうのだ。そして僕はこの孫悟空を三ヶ月近くインドじゅう(デリー―アーメダバード―プーナ―デリー)持って回り、プーナでは毎日リュックに背負ってコミューンを往復したわけだから、けっこう気を使っていた。正直言って、無事に日本に持ち帰れるかどうか、定かではなかった。

 というわけで、朝起きるとまずバンガローの電話線に接続し、メールの授受をする。それからマシンを背中に背負って、歩いてコミューンにご出勤とあいなるのだ。十五分くらいの道のりで、特にホコリっぽいメインロードなんぞ交通量も増えて決して快適な散歩道ではないのだが、背中の孫悟空に与える衝撃のことを考えると、やっぱり自転車やリキシャじゃなくて、歩きということになる。
 おなじみプレム・レストラン付近から左折して邸宅街に入ると、とたんに道も静かになる。両側には巨大なバニヤン樹がニョキニョキと枝を伸ばし、無数の気根を垂らし、こちらもホッと一息というところだ。やがて右手にコミューンの黒いピラミッドが遠望される。

 緑したたるオショー ティルタ・パークにかかる橋を渡ると、コミューンの裏門に到着だ。まずは右手のピラミッド・エリアに入り、ロッカールームでマルーン・ローブに着替える。ホワイトローブの前後は人々でごったがえすこの空間も、朝の十時ころはほとんど閑散としている。
 もういちど裏門に戻り、コミューンのメイン・エリアに入る。右手にマリアム食堂、左手にオショー ハウスを見ながら小径をたどって行くと、Far East 前の小さな広場に出る。この広場は今回ロータス・パラダイスと名づけられた。別に蓮なんかないんだけど、このかいわいを蓮の花咲く楽園にしようという、Far East メンバーによるちょっとウツクシすぎる命名である。

 その楽園のほとりにあるFar East オフィスは、だいたい朝の九時半ころに店開きする。その片隅のデスクに孫悟空を据えて、私のコミューンでの一日が始まるのであった。

 というわけで、インド de インターネット、このへんでおしまい。ここまでおつきあいいただいて、どうもありがとう。いずれまたの機会にお会いしませう。

 

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