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カタルニア民謡に「鳥の歌」というのがある。カザルスがそれをチェロでやって世界的に有名になった。 な〜んちゃってね。オレはそれを聴いたことがない。ただその名前を拝借しただけ。
オレっちは最近、鳥のことで一喜一憂してる。 リビングのすぐ外に、餌台をつるしてあるのだ。 これは一昨年、自由が丘のOsho Japanを訪ねた折、「日本野鳥の会」直営店に行って買ってきたものだ。カナダ製だという。 自分で作りゃいいんだが、不器用なわけ。
ピーナッツを砕いて入れておいたら、去年の今ごろから、鳥が来始めた。 主にシジュウカラだ。 この時期が一番エサの少ない時期らしい。 エサを補給してやると、十分もしないうちにどこからともなく飛来する。
ただゲンキンなもので、野山にエサの豊富になる五月になると、とたんにやってこなくなる。 ときどき庭先をシジュウカラが通り過ぎると、アイツかなあ、ウチの餌をついばんでいたやつは…ってくらいで、お互い他人の二人になってしまう。 そうして夏と秋が過ぎ、やがて年が暮れる。その前にオレはプーナに行ってしまう。
一月末、インドから戻る。 そろそろ鳥が来る時期だ。 台所の片隅に越年のグラノーラがあったので、残飯処理も兼ねて、餌台に入れてみる。 グラノーラって知ってるかな? 最近、コーンフレークの隣あたりに売ってる、朝食シリアルだ。いろいろ種類があって、穀物とかナッツとかドライフルーツとかが入っている。
シジュウカラというのは、元来肉食であるせいか、油分が好きだ。だからピーナッツやクルミなど、油気の多い餌を好む。 グラノーラは穀物が主で、多少甘みがついている。 こんなもん食うのかしらと思っていたら、二、三日後、つがいでやってきて、ちゃんとついばんでいた。 グラノーラなら袋からそのままやればいいから、手間がかからない。ピーナッツやクルミだったら、皮をむいたり、砕いたりといった作業が必要なのだ。
シジュウカラの次にやってきたのはメジロだった。 この小さくてウグイス色して愛らしい鳥は、ちょくちょくウチの庭でも遊んでいたのだが、昨年はついぞ餌台にやってくることがなかった。あんまりナッツ類は好みじゃないらしい。 メジロの好物は甘いもの。だから普通、ハチミツやジュースなんかを用意する。 その甘党が、今年は餌台でグラノーラを食べている。みなさんもお試しになったらいい。
次にやってきたのは、ヒヨドリ。 これは大きくて、灰色していて、ギャーギャーうるさくて、おまけに小鳥たちをけちらして餌台を占拠し、他人の三倍も食べる。 どちらかとゆーと、招かれざる客なのだ。 こうした闖入者を迎え瞑想者はどう対処すべきかOsho講話録をいろいろ探ってみるのだが、いまだ明確な答えを見いだせないでいる。 ヒヨドリ問題は「愛鳥家」共通の悩みであるらしく、野鳥の会で買った『庭に小鳥を呼ぶ本』の中にも、「ヒヨドリを寄せつけない餌台の作り方」が図解入りで載っていた。
余談だが、ここ五日市にはSというサニヤシンが住んでいた…。
…と、ここまで書いたところで、近所の自治会役員から電話が入る。 なんでも、この近辺に二人組の凶悪犯が潜んでいるので、戸締まりをきちんとするように、だと。 今日は一日中、パトカーが出たり、ヘリが出たりで、この辺は大騒ぎだったらしい。 その逃走に使われた車が近所に乗り捨ててあり、犯人たちは山に逃げ込んだという。 というわけで、周辺住民は不安な一夜を過ごすことにあいなるのである。 何かまた新しい情報が入ったらお伝えしよう。
このSというスワミは鹿児島出身で、子供の頃、カスミ網かなんかでヒヨドリを捕らえたらしい。焼いて食うとけっこうウマイのだそうだ。カワセミも時々かかったりするのだが、これは魚くさくていけないんだと。 というわけで、ヒヨドリを見るとなんとなく焼き鳥を想像してしまう私である。
しかしさすがに、捕って焼いて食うってのも面倒くさい。 となると、食えない、うるさい、かわいくないってわけで、何のトリエもないトリということになる。
ただ、昨日あたりから、このヒヨドリが恋鳴きを始めたのだ。 これがいつものギャーギャー声とはうってかわって、ピーヒョロロロという、そこはかとない哀愁をただよわせた歌なのだ。 そーいえば、普段はチュンチュンとしか言わないスズメも、恋鳴きのときには、かなりの超絶技巧を弄するマイスタージンガーに変身することをご存じだろうか。
このヒヨドリ、恋鳴き開始とともに、縄張りの宣言を始める。自分の領分に侵入する他のオスに、容赦ない鉄槌を下すのだ。 で、ウチを領地にしているヒヨドリは、ちょっとお馬鹿さんなのだ。 窓ガラスに映る自分の影を、恋敵だと勘違いし、容赦ない鉄槌を下すのである。 もちろん向こうもひるむことなく鉄槌を下すわけだから、こっちはうるさくてしょうがない。 ガラスをけたたましくつっつくんだから。 おちおち朝寝坊もできない。
昨日もちょっと触れたが、普段は静かなこの養沢の谷も、昨日の午後から騒然とした雰囲気だった。 ウチには新聞もテレビもないのでよくわからないんだけど、情報を総合するとこんな具合だ。 一月に足立区でパチンコ景品引換所に強盗に入り、強盗傷害の疑いで指名手配中の若い男二人組が、昨日五日市管内で検問にひっかかり、車で逃走。午後、ウチの隣部落・青木平にある旅館「本陣」の駐車場に、その逃走に使われた車が乗り捨てられている。犯人たちは山に逃げ込んだ模様。(ただし、この情報源は、主に近所のオバサンたちだから、どこまで正確なのかわからない) 今日になっても犯人の行方はわからない。付近にはパトカーがひっきりなしに往来、空にはヘリが飛び交う。五日市警察前にはフジテレビの中継車が一日中張り付いている。
もうこんなところにいるわけないだろう。 もしオレが犯人だったら、車を乗り捨てた場所から一刻も早く離れるはず。 乗り捨てたのが昨日の昼過ぎだから、犯人はもうとっくに埼玉か山梨にとんずらこえているに決まってる。ちょうど空には満月もかかっていたし…。
ところがすぐ近くにいたのだ! 例のオバサン情報源によると、犯人たちは、龍珠院の裏山にある空き家に隠れていたんだと! 龍珠院といったら、ウチから歩いて十分ほどの禅寺だ。その裏山といったら、二週間ほど前に友人のマーチンと遊んだ場所。帰りに龍珠院に寄って、茶と漬け物の接待にあずかったものだ。かなり急峻で道なんかまったくなかったから、いかに満月が空にかかっていようとも、夜じゃとっても越えられるような山じゃない。
で、今日の夕方、御用になったとのこと。 犯人も警察も、ひとまずは、ご苦労さん。
今日もまた、オレにとって、記念すべき日なのである。 さっき寝床で思い出した。 今、午前九時二十分。
そーか、雛祭りでもあったんだな。オレっちの田舎では月遅れで祝うから、今まで気づかなかった。なんしろ、桃はおろか、梅でさえも咲いていない寒冷な地だもんで。
で、なんの記念日かというと、生身のOshoと初めて会った日なのだ。 先月upした「間違いの十三周喜」をまだ読んでいない人は、まずそちらを読んでほしい。 これは愛と感動と涙の血沸き肉踊る物語なんだけど、う〜ん、どのくらい書けるかな〜。 というのも、オレ今日、所用で東京にでかけなくちゃいけないからな〜。 ま、いいや、やってみよう。 ただ、前置きがちょっと長いのだ。なにしろ愛と感動のオデッセイだからして、ちょっとやそっとじゃ書けないのだ。
◆前置き1〈東京の瞑想センターにて〉 今を去る十三年前、オレはOshoの著書に出会う。 一読して、あっこの人だと直感したことは、先の日誌にも書いた通り。 で、その本『セックスから超意識へ』の巻末には、日本にあるラジニーシ瞑想センターの住所が掲載されていた。 それでオレはさっそく、そこに出ていた東京目黒のイア瞑想センターに電話をかけ、翌日出かけていったのである。2月14日のことだったかなあ。
センターは東横線の都立大学駅近くのマンションにあった。けっこう広々していて、明るい感じ。センターというより、小さなコミューンだ。いろんな人々が出入りしていた。 受付で応対してくれたのが、スワミDであった。 このバグワンという人に会いたいんだと言ったら、実は今どこにいるのかわからないという答え。ちょうどアメリカを追放されたときだったのだ。 そしてDはバグワンのビデオをひとつ見せてくれた。「Way of the Heart」というオレゴン時代のセレブレーションっぽいビデオだ。
新参者にどんなビデオを見せるかってのは、けっこう大事だと思うのだが…。 当時オレは、やっぱり今みたいな坊主頭に近い短髪で、着衣なんかにもあまり頓着していなかった。チベットの僧院に入ろうなどと意気込んでいた頃だったから、何となく修行僧的な風貌だったんじゃないかと思う。 そんなヤツに「Way of the Heart」を見せようってんだから、Dもなかなかの根性だと思う。 オレはそのビデオを見て、こりゃ来るところ間違えたかなと思ったもんだ。
瞑想道場というのは、オレの想像の中では、師の周りで弟子たちが静かに瞑想に励むものだった。ところがこのビデオときたら、師の周りで若い男女がポップな音楽にあわせて踊っている。そしてその師たるや、周囲に女をはべらせロールスロイスなんぞに乗っているではないか! 悟りを開いた師たるもの、ロールスロイスなんか乗っちゃいけないのである。粗末な衣に身を包み、杖にすがって、ヨロヨロと歩くもんだ。
ま、そんな感じで多少ショックを受けたのだが、もちろんそんな程度のことで、「この人の弟子になろう」という気持ちは揺るぎはしないのである。とにかくまずは、バグワンの本を買って帰ろう。 なにか瞑想法について語っている本はないかと尋ねたところ、Dは奥から洋書を五冊持ってきて、机の上に積み上げる。 本の大きさはマチマチだったが、これはひとつのシリーズで、バグワンが瞑想法について詳しく語っている講話集だという。 初めて来た人間にいきなり原書はないだろうとご遠慮申し上げたのだが、これが今から思うと『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』シリーズだったのだ。後でオレが全巻翻訳する巡り合わせになるとは、神のみぞ知るところである。 とりあえず、プラブッダ訳の『存在の詩』と『究極の旅』、それに『オレンジブック』を買ったかと思う。
この人の弟子になりたいんだと言うと、それならまず三週間ダイナミック瞑想をやりなさいと言われる。毎朝七時からここでやっているんだそうだ。 それでオレは、さっそく翌朝あたりから、まだ暗いうちから起き出して、イアに毎日通ったものである。 これはみんな経験することだろうが、最初のダイナミック体験ってのは、言語に尽くしがたいものがある。なんでオレはこんなことしなきゃなんないのか…って感じ。 しかしこれをやらなきゃ弟子にしてくれないらしいから、オレは毎日早起きしては通ったのだった。
そんなある日、いつも通りイアに行くと、行方不明だったバグワンが今ギリシアにいるとの情報が入る。 ギリシアと聞いてオレは色めきたった。というのも、オレにとってギリシアは自分の家の庭みたいな存在だったからだ。1979年の初旅行以来、今までに何回訪ねたかわからない。 ギリシアのどこにOshoがいるのかは分からなかったが、そんなことはどうでもいい。行きさえすればどうにかなるという確信めいたものがあった。 幸いカネとヒマのあった当時のオレは、すぐさま馴染みの旅行代理店に電話をして、アテネまでの航空券を予約するのである。 そして1986年2月28日、成田発カラチ行きパキスタン航空機の機上の人となるのであった。
◆前置き2〈1979年の懐古談など〉 なぜパキスタン航空だったかというと、当時、南回り欧州線で一番安かったのがこの航空会社だったからだ。南欧大好き人であったオレは、よくこの航空会社の世話になったものだ。 このときは乗り継ぎが悪く、カラチの空港ホテルで二泊することになる。ダイナミック瞑想を始めてまだ三週間たっていなかったから、もちろん毎朝ホテルの自室でひとり瞑想に励むのであった。 そして3月2日、カラチからアテネ行きの便に乗り込む。
実は、オレがOshoと初めて出会ったのが、このパキスタン航空アテネ行きの機内だったのである。それは更に七年さかのぼる1979年の話である。 大学を出た22歳の年、とにかくヨーロッパを見たかったオレは、卒業式も出ずにパキスタン航空に乗り、とりあえずギリシアに向かうのであった。やはりカラチで乗り換え、アテネ行きの飛行機に搭乗すると、隣に座っていた男が、分厚い本を見せてくれたのである。バグワンというインド人の本だという。 ただしオレは当時インドなんて眼中になかったので、あんまり興味が沸かなかった。なんだこの本……横書きで、やたらに改行が多くて、紙質のあまりよくない本だなあ…という印象くらいしかなかった。 でもバグワンという名前とあの顔写真はしっかり記憶に残ったのである。 そうしてアテネに着いたオレは、まずクレタ島に船で渡り、一月ほど島内をめぐり歩くのである。
その七年後の一九八六年、奇しくも同じパキスタン航空のアテネ行きで、その本の主バグワンに会いに行こうというのである。
この稿は朝、家で書き始め、それからJR中央線の車内で書き継いだもの。今は青山の店のカウンターに座っている。 実はあさってから半月ほど出張なので、いろいろ仕事がたまっていて、今日はこれ以上はちょっと無理みたい。 結局、運命の3月3日にはたどり着かなかったが、またこの続きは暇を見て書こうと思うので、お楽しみに!
明日から半月にわたるツアーに出発。 その前にいろいろ片づけるべき仕事があって、多忙な一日であった。
いちばん手こずったのはCassiopeiaの設定かな。 いや、別に星座の名前じゃない。CASIOで出しているハンドヘルドPCだ。 昨日、新宿東口ビックパソコン館で買ってきた。
岩波新書と同じくらいの大きさで、重さわずかに430グラム。キーボードつきではおそらく一番小さいんじゃないかと思う。モノクロ画面で、値段は約5万5千円。単三電池二本で動く。 メタリックなデザインも女性のコンパクトケースみたいで、なかなかよろしい。 出張の多い真木テキスタイル社長のShakti用に、E-メール専用で買ったんだけども…。 WindowsCE機なんで、ちょっと手こずる。
奮闘三時間の後、やっとメール授受にまでこぎつける。 (ホームページもテキストだけなら見られる。) ただ、インターネットをどうやって切断するのかわかんない。今のところ、受信トレイを閉じるしか方法がない。誰か知っている人いたら、メールで教えて!
今、午後の二時半。日本トランスオーシャン航空JTA73便石垣行きの機内にいる。 なに? JTAを知らない? これは那覇に本社のある沖縄の航空会社で、JALの系列。だから機体デザインもJALそっくりだし、マイレージもJALと共通だ。昔は南西航空という名前だった。
しかし最近は日本も徐々に衛生意識が浸透してきたようで、この便も全面禁煙になっている。たいへんよろしい。 数年前にJALが日本に先駆け国内線全面禁煙にしたんだけど、どーゆーわけか沖縄便だけは喫煙OKだった。(これは差別だ!) 僕が沖縄に行くのは一昨年秋以来なんだけど、その間に多少の進歩があったというわけ。
このJTA73便は、羽田発の石垣直行便。おそらく日本国内で運行される直行便の中では、いちばんの長距離便だろう。羽田から3時間20分の飛行時間。台湾に行くのとほどんど同じ距離。ただ機材は短距離用のボーイング737だ。 おもしろいことに、羽田発石垣行きの直行便はあるが、石垣発羽田行きの直行便はない。なぜか。それは石垣空港の滑走路が短いからだ。 滑走路が短いから、燃料を満タンにすると、重たくて飛び立てない。だから石垣発羽田行きは、いったん宮古に着陸し、給油してから羽田に向かって飛び立つのである。当然、737よりデカイのは使えない。 それが石垣新空港問題の発端なんである。地元の経済界は、もっとデカイ航空機を就航させて人やモノの交流を活発化させたい。それで白保の海をつぶして大きな海上空港を作ろうってわけ。
ところで、今日もやっぱり記念日なんだな。 Oshoクレタ島追放記念日。 1986年3月5日、Oshoはクレタ島で逮捕され、イラクリオン空港から飛行機でいずこかへ移送されたのだ。 そのとき彼の乗った飛行機も、やっぱりボーイング737だった。
そうだ、まだ時間があるから、おとといの続きを書こう。 1986年3月2日の早朝、オレはカラチからアテネへ向かう機上の人となっていた。 Oshoがギリシアのどこにいるかは知らなかった。おそらくはアテネのどっかでのんびりしてるんだろうと思っていた。 アクロポリスの丘の下に広がる旧市街プラカ。その街路をお付きの人二三人を連れてそぞろ歩くOsho。そこにバッタリ出くわしたオレは、Oshoの前にひざまずき、弟子にしてもらう…。そんな場面を想像していた。 そしてオレの乗るパキスタン航空機は、アテネの空港に向かって降下を始める。雲間からは茶色い岩礁にくだけるエーゲの波頭がのぞく。 やがて飛行機は、アテネ郊外にあるヘレニコン国際空港に着陸。その七年前、オレが始めて異国の地を踏んだのもこの同じ空港だった。イミグレで「ΕΙΣΟΔΟΣ」(うまく表示されるかな?)のスタンプをもらって、ロビーに出ると、向こうからオレンジ色の服を着て数珠を下げた一団の人々がやってくる。一目見てどんな輩かわかる。バグワンに会って本国に帰る連中だろう。 おそらくドイツ人かなんかだろうが、オレは彼らのもとにつかつかと歩み寄って、一言、「Where is he?」と尋ねる。 すると相手いわく、「He is in Crete」 「Where in Crete?」 「Agios Nicholaos!」 会話はこれだけで終わった。それで十分だった。
クレタ島のアギオス・ニコラオス。オレはその街を知っていた。 7年前の1979年、一月ほどクレタ島に遊んだオレは、最後に島の東端にあるこの港町アギオス・ニコラオスから船に乗って、北のサントリーニ島へと向かったのだった。 ちなみにアギオスとはギリシア語で「聖」、アギオス・ニコラオスとは「聖ニコラス」つまり「サンタ・クロース」のことだ。
それでは電池も尽きてきたことだし、今日はこの辺で。
今、午後の7時13分。ところは沖縄八重山・石垣市にある「アトリエ游」。 明日のファッションショーに向けて、準備作業が行われている。 舞台から伸びた花道みたいな台上を、Shaktiが白い衣を着て、鳩間節にあわせてしずしずと歩く。それに合わせて、照明や音量を調節する。ブタカン(舞台監督…といってもウチのスタッフだが)が、歩き方の指示を与える。
だいたいオレとファッションショーなんてまことに似つかわしくないんだが、これが存在の意向、神の思し召しとあらば、あきらめて受け入れるほかはない…。 な〜んちゃって、これもまんざら悪くない。なんとなれば、オレは「Parva」すなわち「お祭り」男だからして、ショーと名のつくもの、すべからく歓迎なのである。 ファッション・モデルとしての天分も、Shaktiなぞより上なのだ。なんとなれば、ステージに上がったとたんエンライトしてしまうからであり、わが比類無き容姿とあいまって、向かうところ敵なし六波羅入道平相国清盛状態になってしまうのである。
あっ、そろそろリハも終わりになるらしい。 これからみんなで夕飯だ。今夜はオリオンビールを飲みながら、ゴーヤチャンプルーと八重山そばを食うことになっている。 八重山そばとはいかなるものか。これはまたご縁があったらお話しよう。
今日も石垣島。午後0時23分。 昨日の雨模様とはうってかわって、南国の青空が広がっている。それほど暑くもなく、心地よい海風が吹き渡る。 みんなはもうすぐ始まるファッションショーの準備に余念ないのだが、私はというと、昨晩五日市のN嬢から「早く肝心の3月3日の事を書け」という催促のメールをいただいたので、ソファに座ってただひとり、沖縄特産のさんぴん茶を飲みながらパソコンに向かっているという次第。
さて、ときは元禄十七年…。じゃなかった、1986年の3月2日朝。 アテネのヘレニコン国際空港に到着したオレは、空港ロビーでどっかのサニヤシンから、Oshoの居場所を聞いたのであった。 クレタ島のアギオス・ニコラオス。 そこまでわかったら、もうこっちのもの。アギオス・ニコラオスには七年前に行ったことがあるから、おなじみなのだ。たいして大きな街じゃないから、行きさえすれば、Oshoの居場所はつきとめられるはず。
そこでとりあえず、アテネの街に出る。空港からは市心に向かってひんぱんにバスが出ているから、簡単なものだ。20ドラクマ払ってバスに乗りこむ。 樹木のあまり生えていない石灰岩質の荒涼な台地を走り抜けること数十分。やがて、はるか左手上方にアクロポリスの丘が見えてくる。その上に鎮座するのは白亜に輝くパルテノン神殿。二十数世紀の歳月によってすっかりアクが洗い流され、今はひたすら美しい。
そしてバスはシンタグマ広場に到着する。アテネのまさに中心だ。付近には旅行エージェントが散在している。そのうちのひとつに飛び込み、飛行機便をチェックする。 七年前はピレウスの港から船で一晩かけて行ったものだが、今回はちょっと張り込んで飛行機だ。ちょうどイラクリオン行きの便が午後にあったので、さっそくそれに予約を入れる。
まだ少し時間があったので、ここはひとまず腹ごしらえと、近くの飯屋に立ち寄った。 するとまだ若い店のオヤジが、お前はどこへ行くのかと聞く。クレタ島だと答えると、クレタで何をするのかと言う。それで、バグワンに会いに行くのだと答える。すると今までのにこやかな顔が急にけわしくなって、「あいつは悪いヤツだ」と言う。
「どうして知ってるの」 「新聞に書いてある」 「だって会ったことないんだろ」 「新聞にそう書いてある」 と言って新聞を見せる。ところがあいにくギリシア語だからよくわからない。新聞を鵜呑みにするのも危険だよと言ったのだが、向こうは全然聞いていない。 左様この街の民草は、かつてソクラテスに毒人参をば仰がせたのであった。
アテネもまた、東京やボンベイと同じく、国際空港と国内空港が別々だ。 昼食後、同じくシンタグマ広場からバスに乗ってアテネ国内空港に行き、オリンピック航空のイラクリオン行きに乗り込む。 かつて風浪に弄ばれたオデュッセウスの行きまどったエーゲの海をはるか眼下に望みながら、クレタの島にはひとっ飛び。 その中心都市イラクリオンに着いたのは同日夕刻のことだった。 ヨーロッパの地図を見てもらえばわかるが、クレタ島は東西に細長い。イラクリオンはその西部にあり、アギオス・ニコラオスはその東端にある。まだOshoへの道は長いのだ。そこで今日の旅はこのへんで切り上げ、そのへんに宿をとることにする。
さて夕飯だ。その頃オレは、にわかベジタリアンになっていた。だから何を食ってもいいというわけじゃない。飛行機の中でも、さっきの飯屋でも、ずっとベジ。 Oshoはきっと敏感な人だろうからして、肉を食ったことがバレてしまって、「お前は弟子にしてやらん」とか言われたら困るのだ。(誤解なきように言っておくが、Oshoは実際にはそんなことは言わない)
さて、ギリシアではレストランのことを「タベルナ」と呼ぶ。このタベルナというのは便利なところで、客はまず調理場へズカズカと入っていく。そしていろんな鍋に入っている料理を、コレとコレという具合に指さして注文するのだ。 だいたい何でも口に合うから心配はいらない。生野菜が食べたいときにはサラダを注文する。青野菜とトマトが皿に盛られて、その上にフェタという山羊のチーズがスライスされて載っている。テーブルの上には小瓶に入ったオリーブ油とビネガーが置いてあるから、それをドバドバかけて食べるのだ。 主食はパンで、それを料理といっしょに食べる。パンと水は基本的におわかりが自由だ。だからして、金のない若い旅行者がまず最初に憶えるギリシア語といえば、必然的に「プソミ・パラカロ(パンちょうだい)」と「ネロー・パラカロ(水ちょうだい)」になる。
翌朝早くバスに乗り込んで、今回の目的地、アギオス・ニコラオスへと向かう。イラクリオンから二時間ほどの行程だ。 ときに1986年3月3日。(やっとたどりついた!)
アギオス・ニコラオスというのはクレタ第三の街で、島の東部にある風光明媚な保養地。 まだ春も浅く、普通なら観光シーズンも始まっていない。ところがOshoという予期せぬ来訪者を迎え、それを目がけてヨーロッパ中から弟子たちが続々とつめかけてくる。その数はおそらく千人にも達しようとしていた。こうして街はときならぬ活況を迎え、宿の主人たちはあわてて部屋を掃除して旅人の来訪を待つのだった。 オレもそんな小さな宿の、海に面した部屋をとって荷物を置いた。 Oshoの居場所は簡単にわかった。街の東のはずれにあるヴィラに滞在しているという。 そこでさっそくそのヴィラへと向かう。宿から海沿いに歩いて十五分ほどだ。 途中にオルモス・ホテルという洒落たリゾートホテルがあって、そのロビーがOshoインフォメーション・センターのようになっていた。Oshoの写真が飾ってあったり、デスクが出ていたりする。ヴィラへの道は、そこから山側へと折れていた。 春の花々が咲く野原を歩いていると、木立の中に建物が見えてくる。きっとあれに違いない。海を渡るそよ風にのって、マイクを通した和尚の声が聞こえてくる。
Oshoの滞在していたヴィラは、街から少し離れた、緑豊かな小高い丘の上にあった。 その丘は一方が鋭く切れ落ちて、ほとんど垂直の崖になっている。その遥か下にはエーゲの海が岩とたわむれ、白いしぶきを上げている。 断崖の上、かなり広い敷地の一角に、その地中海風のヴィラは建っていた。後で聞くと、ギリシアの著名な映画製作者の所有になるのだそうだ。 講話中のこととて、ヴィラの門は閉ざされていた。そこでオレはそのまわりの野原をブラブラ散歩していた。すると眼光鋭い感じの若いヨーロッパ人が近寄って来て「お前は誰か」と聞く。どうやらガードらしい。なんとなくものものしい感じだ。怪しい者ではない旨を告げ、いったんその場を離れることにする。
オルモス・ホテルに戻り、インフォメーション・デスクへと赴く。 そして、弟子入りしたい旨を伝える。すると係りの人がサニヤス申込書を持ってくる。それに必要事項を記入して提出すると、あさってテイク・サニヤスだと言われる。へ〜、わりかし簡単なもんだな。 もちろんオレは弟子入りにそなえて、カラチのホテルでも、イラクリオンのホテルでも、毎朝ちゃんとダイナミック瞑想をしていた。しかしそんなことはぜんぜん聞かれなかった。(聞かれはしなかったけど、翌朝もちゃんとひとりでダイナミックをしたのである)
Oshoはそのころ一日二回、朝と夕方に講話をしていた。 その日の夕方、初めての講話に出席しようと、開始の三十分ほど前にヴィラへ出かけてみた。 門を通り、路地を抜けると、広々とした前庭に出る。もうかなりの人々がつめかけていた。 広場の床には石灰岩が敷きつめられ、その向かって左側に、地中海特産のイナゴマメという大きなマメ科の木が枝を広げている。 その木陰に和尚の演壇がしつらえられている。演壇といっても、ちょっと高くなったところに椅子とマイクと照明があるだけだ。野外というのがいかにもギリシアらしくていい。 向かって右側、前庭の尽きるところはもう断崖だ。その縁のところに座っていると、遥か眼下には群青のエーゲが広がり、頬をなぶる夕風が心地いい。
やがて楽士たちの奏でる音楽にのって、Oshoが踊りながら出てくる。踊るといってもステップを踏んだりするわけじゃなく、ビデオを見たことのある人ならおわかりだろうが、開いた両手を音楽にあわせて指揮者みたいに上下させるのだ。 そしてそのOshoのまわりを、世話係のヴィヴェックという女性弟子が、うれしそうに踊り巡る。 実はそんなOshoを見ていて、淡褐色をした巨大な肉の仮面のように見えてしまったのだ。変な表現だが、そう見えたんだからしょうがない。後日、日本に帰ってラジニーシ・ニューズレターに原稿を頼まれたので、思った通り正直に書いたら、そこんところだけ時の編集長スワミRの検閲にひっかかり、削除の憂き目に遭った。
そして講話が始まった。マニーシャというグラマーな女性弟子が、(オーストラリア人のくせに)ちょっと気取った英国風のアクセントで質問を読み上げ、それについてOshoが語る。 オレは生来ボンクラなせいか、この記念すべき講話についてほとんど憶えていない。ただ、何かクリシュナムルティのことを話していたな、という記憶はある。
ま、あんまりたくさん書くとみなさんも目が疲れるだろうから、今日はこの辺にしておこう。
今、午後の5時40分。 今日は石垣島から西表島へとやってきた。 石垣港から高速船で45分ほどの距離だ。 ここ八重山諸島は日本の西南の端。台湾は指呼の先だ。 距離的に言うと、台北のほうが、首都東京はおろか県都那覇よりもずっと近いのだ。
マングローブの生い茂る亜熱帯の島、西表。 ここが奇跡的なのは、亜熱帯でありながら、日本だということ。 ここ西表には、沖縄には珍しく、田んぼがある。 そして私の滞在している工房の隣にある田んぼでは、今日、田植えが行われている。 稲刈りは六月だという。日本で一番早く新米がとれるのも、ここなのだ。 おっ、今、裏山でサンコウチョウが鳴いた。CDでしか聞いたことのない、ツーピーホイホイホイという特長ある鳴き声だ。これを「月、星、日」と聞いて、三光鳥というわけだ。 先ほどはアカショウビンが鳴いていた。この辺にしかいない真っ赤なカワセミだ。 さすがに西表国立公園。ヤマネコばかりじゃない。
昨日あんまりたくさん書きすぎたので、みなさんの健康のことも考えて、今日はこのくらいにしよう。 しかしながら、「昨日あんまりたくさん書きすぎた」というのは、実は正確じゃない。 だいたいいくらオレが天才でも、我が社のファッションショーの最中に、あんなにたくさん書けるはずがないのだ。 あれはかつて書いた未発表原稿の中から、一部手直ししつつ掲載したのだ。 あの話はまだ少し続きがあるので、また明日あたりupしようかと思う。
今日こそは、なんにも書くことがない。 う〜ん、亜熱帯! どっかでニーチェも言っておったな、湿度の高いところでは大いなる思想は生まれないって。 たしかにマインドがトロ〜ッとして、なかなか動こうとしない。
このような南の島において、はたして瞑想とは何ぞや? なんていう大いなる疑問も、いっこう生じることなく、 ただひたすら、ガジュマルの樹に渡したハンモックの上で、昼寝をしたり、 星砂の浜を見下ろすレストランのテラスで、生ビールを飲んだり… う〜ん、極楽トンボ状態。
蛙の鳴き声に包まれた夜の工房。 その開け放たれた窓から、トンボが一匹、迷い込んでくる。 ああ、これも極楽トンボ。 天井の蛍光灯のまわりでパタパタやっている。 するとヤモリが二三匹、色めき立ってツツツと寄ってくる。
あのヤモリってえのは、いつ見ても奇跡的だ。 天井にペタッとはりついて、自由自在に動き回る。 あなただったら、とってもそんなマネはできまい。 そのまま無様に落下だろう。
にもかかわらずトンボは無邪気にパタパタ。 あとは時間の問題だ。 灯火の脇に羽を休めたところ いちばんでかいヤモリが頭からパクリ。 すかさず小さいのが横からちょっかいを出す。
そのどさくさの中、 あわれトンボは空中分解。 頭なしの状態で、ふうわりと 機(はた)にかかった織りかけの布の上に落ちていく。 ああ、仮借なきノーマインド。
以前も紹介したが、九州のサニヤシンたちの作るホームページに、サニヤス九州というのがある。 そのサイトの呼び物ページは、「スニートの温泉紀行」。すなわちサニヤス界の三浦友和(ん!? 古いな〜)こと佐賀の療術師スワミ・スニートによる、「火の国」中九州の温泉・突撃体験レポートだ。最近見てないけど、あれはなかなか楽しくてタメになる。
さて、おとといのこと。西表島・大原の港からこの工房へ向かうバスの道中、島の東端・高那部落跡近くに、見慣れぬ看板が出ていた。いわく「日本最南端・西表温泉」。 いつか行ってみたいなあと思っていたところ、今日の夕方、みんなで出かけることになった。
まあそんなに期待はしていなかったんだけどね。 「温泉」ってのはけっこう基準が甘くて、必ずしも温かい必要はないみたい。特定の成分をある一定以上含有していると、「温泉」と称していいことになっている。 だいたい日本は火山国だから、深く掘れば、どこでもある程度の温湯は出てくるのだ。 それで最近、やたらに「温泉」が増えている。ウチの近くにも二カ所ある。深いところから地下水を汲み上げてボイラーで加熱すれば、すなわち温泉なのだ。
で、この「西表温泉」。日本最南端であるとともに、最西端なんだそうだ。 な〜んにもない原野にただひとつ、ポツンと立っている。去年できたばかりで、近代的な作り。おまけに入湯料も千二百円。 地下八百メートルのところから、35度くらいの湯が出るんだそうだ。 まあ私のように信州・別所温泉で産湯を使った身には、特になんてこともないんだが…。
そもそも西表ってところには、湯船の文化がない。インドみたいなもので、一年中シャワーで事足りる。 そんなところにわざわざ温泉が必要なのかわからないが、島の人にとっては珍しいみたい。 木性シダのヘゴの木など亜熱帯性の植物を眺めながらの露天風呂も、まあおつなものだ。
今日はかなりまじめな考察になると思うので、ご愁傷さま。 なにしろ天気が悪く、外では雨交じりの強い風が吹きまくっている。 だから、うちでおとなしくしているほかはない。
なんで今ぼくたちが西表に滞在しているかというと、真木テキスタイル社長Shaktiの師と仰ぐ染織家が、ここに住んでいるからだ。西表西部にあるその人の工房に、今、寝起きしているというわけ。 この染織家の夫君K氏は、じつにマルチな人間なのだ。 田をつくり、イノシシを狩り、カツオを釣り、蚕を飼い、工房の工事をし、郷土史を研究し、パソコンを使い…という具合。(島の原住民でMacを使っているのは多分この人ひとりだろう…書棚には最新のMac雑誌が並んでいる)。 そこで私は彼のことを、デジタル原始人と呼ぶのである。
数ある彼の特技のうち、私が一番うらやましく思うのが、音楽の技。 三線をつまびきながら、島の歌を歌う。 ここがすごいところだ、三線で島の歌。 オレがプッチーニのアリアを歌うのとはちょっと違う。
オレは子供の頃から少年合唱団に入ったり(TBSの歌番で独唱したこともある)、大学ではグリークラブに在籍したこともあって、声楽についてはちょっとウルサイのだ。 合唱団での発声トレーニングといえば、腹式呼吸に基づくベルカント唱法。ところが、この歳になってもうまくできない。 だから、いまだ歌が上手に歌えない。 アリアやナポリターノばかりじゃない。文部省唱歌も満足に歌えない。 だいたいあんなものを子供に歌わせる音楽教育がまちがっとる! そもそもああした唱歌類は、西洋音楽の影響下に作られた楽曲だ。 だから歌っていてもなんとなくしっくりこない。
だいたいこの国は、三百年近くの鎖国の後にドバッと西洋文化を受け入れたせいで、まだその消化がうまくできていない。 その象徴がオトコのビジネスウェアだ。 なんであんなセビリアの上着(背広)と、クロアチアのタイ(ネクタイ)と、牛革の靴を身に着けなきゃなんないんだ。熱帯みたいなこの国の夏に。(それも温暖化が進行し、ヒートアイランド現象が顕著だというのに) もうすこしマトモな衣服がないのだろうか。
歌にしても、状況は似たようなものだと思われる。 本当の意味での「自分たちの歌」というのが、ない。 というのも、外国に行って、「日本の歌を歌ってください」と言われると、ハタと困るのだ。 もちろん「オーソレミオ」ではないし、「津軽海峡冬景色」でもない。かといって「荒城の月」でもない。 それで仕方なく「斎太郎節」ってことになる。「エンヤートット、エンヤートット、松島の、さよ〜瑞巌寺ほどの…」って、あれだ。でもちょっと古いんだな〜。
その点K氏の三線と歌は、ちょっと違うのである。 単なる演奏会用音楽、あるいは博物館的音楽ではない。 普段から祭で歌い、働きながら歌い、宴会で歌い踊る曲なのだ。 あれには負ける。 自分の血肉になっているからだ。 あれだけはうらやましいと思う。
今日は一日中、島のあちこちを遊び歩いていた。 島の東端・南風見田から西端・白浜まで。 そして今、帰ってきたところ。 ときに夜中の零時過ぎ。
帰りの夜道では、残念ながらイリオモテヤマネコちゃんには会わなかった。 ネコちゃんには、二年前のある夜、県道上で、一瞬だけ会ったことがある。 車のヘッドライトの中、道路を横断していく姿が見えたのだ。 僕の場合、ただその一度きり。 (それも本物かどうかあんまり自信がない…希望的観測も混じっている) めったに会えるもんじゃないのだ。
もちろん、イリオモテイエネコにはいくらでも会える。 夜ヘッドライトに浮かび上がるネコちゃんも、ほとんどの場合がこのイリオモテイエネコだ。 特に人家の近くでは。 お間違えなきよう。 ヤマネコちゃんとそんなにサイズも変わらないし。
今、午後五時。船浦港から船に乗ったところ。窓からは緑深い西表の山々が見える。 五日ほど滞在した西表を後にして、石垣島へと戻るところだ。 船内には、島の人々、観光客、仕事帰りの作業員などいろんな人々。 けっこう揺れるなあ。パソコンのディスプレーなんか見てると酔っちゃいそう。
昨晩はコーシェンとニケタナのサニヤシンカップルに夕飯をご馳走になった。 島の西の端、白浜の部落に住んでいる。 じつに日本最南端のサニヤシンなのである。(Parva Book of World Records 記載)
コーシェンには、昨年プーナのOshoセレブレーションで獅子舞を踊ってもらったりした。 そのとき彼いわく、「自分は半年西表で働き、半年プーナに滞在するんだ」と…。 なんたるうらやましい生活!! と、内心おおいなる嫉妬を覚えたものである。 ところが今年プーナでは彼の姿が見えなかった。それで、どうしたのだろうと思っていたのだ。
西表に渡って四年余。当初は土木作業員をしていたコーシェンだが、一昨年あたりから漁師に転身。 おそらく本邦唯一の漁師サニヤシンだろう。(Parva Book of World Records 記載) ただ、あんまり実入りがよくないのだそうだ。というより、軽トラを買ったり、道具を揃えたりでいろいろ出費が多いらしい。 それで余裕がなかったというのが、プーナ不参上の一因。
一緒に住んでいるニケタナは、当地在住六年。コーシェンと同じく大阪出身で、もともとはダイバーとしてこの島へやってきた。 その後、地元の建築会社に就職。そこで石川というへんな男と知り合う。(コーシェンのこと) 毎年インドにでかけるこの男を追いかけ、一昨年、渡プー。 Oshoのことはまったく知らなかったにもかかわらず、すぐにコミューンに馴染んでしまう。 昨年二度目の渡プーを果たし、テイク・サニヤス。Ma Antal Niketanaの名前をもらう。
白浜部落の海に面した二階の部屋に、二人で住んでいる。 テラス付きの広々としたスペースで、家賃も驚くほど安い。 行き止まりの部落だから、車もほとんど通ることなく、ひたすら静か。 電話も入れてないから、さらに静か。 地元にもよく溶け込んで、のんびり暮らしている。
西表にあこがれて来島するサニヤシンはよくいるが、みな住むにまでは至っていない。 日本の西南端で、かなり特色ある土地柄だから、よっぽど縁がないと…って感じ。
今、朝の8時50分。石垣発エアーニッポン432便沖縄行きの機内。那覇で乗り換え、鹿児島まで行く。 あっそうそう、飛行機の中にいるからといって、リアルタイムで発信しているわけではない。鹿児島に着いてから、電話線に接続して、ネット上にupするのだ。
今朝は早起きし、7時半に石垣市内の宿を出る。 タクシーに乗り込むと、後部座席の前に、シャープの液晶ディスプレーがある。 テレビかと思っていたら、その横っちょにマイクが備えてある。「あっ、カラオケか」と言ったら、運転手のおじさんが「ええ、カラオケです」と言う。 タクシーの中で、しかも朝っぱらからカラオケなんかする気はまったくなかったのだが、おじさん、頼みもしないのにサービスでスイッチオンする。 すると流れてきたメロディーが、あのなつかしき「安里屋ユンタ」。
これは沖縄民謡の中でも最も有名な曲なので、知ってる人も多いだろう。「マタハーレヌ チンダラカヌシャマヨ」というアレだ。 この歌の故郷は竹富島。石垣からは目と鼻の先だ。 この「ユンタ」というのは「遊び歌」という意味で、今は歌詞も日本語になっている。 「君は野中のイバラの花よ、暮れて帰ればヤレホに引き留める」という具合。 最後の一節、「マタハーレヌ チンダラカヌシャマヨ」だけが八重山語だ。 「チンダラ」は「美しい」、「カヌシャマ」は「娘さん」という意味。(決して「死んだら神様よ」ではない)
このユンタの本歌、すなわち本節は、「安里屋」(あさどや)。 著名な八重山民謡であるこの「安里屋」の背景には、こんな物語がある。 今を去るン百年の昔、八重山諸島は琉球王朝の支配下にあった。 竹富島には八重山政庁が置かれ、沖縄本島の首里から行政長官が下向する。 はるばる単身赴任でやってくるこの殿様は、身辺の世話をしてくれる女性を島で調達する。すなわち現地妻だ。 強大な権力を持つ殿様だから、現地妻に指名されたら断るわけにはいかない。(また女性の方も名誉に思ったかもしれない)。 そんなある時、島に首里から新しい殿様が赴任してきた。 そして当時島には、クマヤという名の島一番の美女がいた。 殿様はその娘を目に留め、お世話係に指名するのである。 ところがクマヤは敢然としてその指名を断り、殿様をソデにしてしまうのだ。 そうしたクマヤの「勇敢な行為」が、「安里屋」の歌となって伝えられていというわけ。 つまりこれはレジスタンスの歌なのだ。
ただし「ユンタ」の歌詞にはそんな歴史性はなく、他愛もない日本語の相聞歌になっている。 そして毛遊び(沖縄版の歌垣)や宴会の席で、みんなで楽しく歌ったり踊ったりするのだ。 オレも一昨年の夏、初めて三線の触れた時、まずこの「ユンタ」をさんざん練習したものだ。 だからこの曲が流れると、それが朝っぱらのタクシーの中でも、歌わずにはいられないわけ。 画面に現れる歌詞にあわせて調子よく歌っていると、運転手のおじさんに「上手だねえ」とほめられる。 地元の人にほめられると、たとえそれがお世辞であっても、うれぴいものだ。
早朝タクシーカラオケの第二曲目は、ウパニシャッド喜納昌吉の「花」。 これも、頼みもしないのに、勝手に流れてくる。もはや沖縄の古典歌謡だ。 この曲には、去年十二月プーナOshoコミューン、ミスティックローズ瞑想・泣きのステージで、だいぶ世話になったものだ。 瞑想リーダーのヴァンダノいわく、この曲は日本人より西洋人に人気があるのだという。 たしかに「泣きなさい、笑いなさい」のリフレーンが流れると、みんな日本語なんぞわからないくせに、泣き声が一段と大きくなるのだ。やっぱりウパニシャッドには不思議な力があると感心したものだ。
市内から石垣空港までは車で十分弱。「いつの日か、いつの日か、花を咲かそうよ」のリフレーンが終わる頃、空港に到着。 そして今、鹿児島市内の某ギャラリーにいる。首里王朝を支配下に置いていた薩摩の国だ。 更にその上には、江戸の幕府があった。 多重の支配構造。八重山←首里←薩摩←江戸 かつて八重山の有為の青年たちは、青雲の志を抱いて舟に乗り込み、何日もの航海の後、首里の都へと上向したものだ。そして沖縄本島の青年たちは薩摩へ、薩摩の青年たちは江戸へ…。それが今では飛行機でひとっとび。八重山も首里も、薩摩も江戸も、なくなった。
いやーオレも、ビジネスの合間にホームページを二つも持って、たいへん! (ホームページの合間にビジネス…という説もあるが) 今日は我が社のホームページの方に記事をupしたから、みなさんそっちの方を見ておくれ。 今日も雨の中、鹿児島のギャラリーに来ているんだが…。
ご存じの通り、オレは織物のことがあんまりわかんない。 糸の段階まではわりかし興味があるんだが、それがタテヨコに組み合わさっちゃうと、どうもイケナイ。 それでこうした織物の展示会に来ても、まったくやることがない。 それでパソコンを持ち込んで、カウンターでパチパチ。 でもそのお陰で、Oshoの翻訳がはかどるのだ。 あっ、ついでだから、さっき翻訳したOshoジョークをひとつ掲載しよう。
レイチェル・サパースタイン夫人が子供たちを学校に送りだしたところ、電話が鳴った。「もしもし、お宅のご主人の名前は、エイモス・サパースタインさんですか」 「はいそうです」、夫人は答えた。 「警察ですが、事故がありまして、犠牲者の身元を確認したいのです」 サパースタイン夫人は遺体確認所に到着した。すると係員が白いシーツに覆われた遺体を見せる。そしてシーツを持ち上げ、「ご主人ですか」と尋ねた。 サパースタイン夫人は目を丸くした。そしてオイオイと泣いた。「でもどうして…。はい、これは主人です…。でもどうして、こんなにシーツが真っ白に…どこの洗剤かしら?」
実はこのジョーク、オチの部分がよくわからなかったのだ。 原文は、"How did you -- yes, that's my husband -- how did you ever get your sheets so white?" そのまま訳すと、「いったいどうして…はい、はいこれは主人です…いったいどうして、シーツがこんなに真っ白に?」
でもこれだとよくわからない。そこで友人のイギリス人・マーチンに聞いてみたのだ。 すると「how did you ever get your sheets so white?」というのは、洗剤の宣伝の決まり文句だというのだ。日本語で言うとさしずめ「まぶしい白です」ってとこか。
それもあって、このジョークはうまく訳せない。 このジョークのカギは「how did you…アナタ、いったいどうして」にある。当然、読者は、「アナタ、いったいどうして、こんな変わり果てた姿に?…ヨヨヨヨヨ」という愁嘆場を想像する。ところが突如それが、「オタクのシーツはいったいどうしてそんなに白いの?」というテレビコマーシャルに変質してしまうのだ。 つまり you が「夫」から「隣のオクサン」に変わってしまう。 この思わぬ状況の変換がおかしいんだが、日本語にはこのyou に相当する言葉がないこともあって、翻訳困難なのだ。
いや〜、しくじった。 あっ、今、日本エアコミューター74便、高松行きの飛行機の中。午前11時39分。 何をしくじったかというと、稀にみる晴天のもと、飛行機の中でぱるばか日誌をやっているという、この悲惨な状況のことである。
今日の飛行機は、SAAB340B。36席のプロペラ機だ。SAABといったら普通スウェーデンの自動車会社を思い出すが、こうして航空機も造っているというわけ。 プロペラ機に乗るなんてめったにない機会。鹿児島−高松線というローカル航空路ならではの話だ。 プロペラ機ってのは雰囲気的に、遊覧飛行という感じ。だから、窓側に座るに限る。実際、この飛行機は一列が三席しかないから、窓側の率が三分の二。通路席の場合でも、視野は若干狭いが、両側の景色が見える。だからよっぽど不運じゃない限り、のんびり空中散歩が楽しめるはずだったのである。
ところが、オレたちの場合、この「よっぽど不運」のケースだったのだ。 こんなローカル路線だからたいして旅客もあるまいとタカをくくって、空港に到着したのが出発の20分前。 いそいそとチェックインカウンターに赴いたところ、予約客の中では僕らが最後。飛行機は満席で、空席待ちが出ているほど。それで最後尾の列しか空いてなかった。
で、この最終列、SAAB340Bの座席12列の中で、唯一、窓のない列なのだ。だから外がぜんぜん見えない。 にもかかわらず機長は非情にも、「みなさまの左手前方に阿蘇山が見えます」とか機内放送を入れる。オレの左手前方には、ポマードで髪を固めたビジネスマンのテカテカ頭しかないではないか! 今はただひたすら、低気圧が急接近して一天にわかにかき曇ることを願うばかりである。
教訓:天気のいい日にプロペラ機のローカル線に乗る場合には、遅くとも一時間前にはチェックインすべし。
しかし、スッチーが若くて美しいことが唯一の救いである。 今、お茶を出してくれた。かわい〜! どこの航空会社も、競って若く美しいスッチーを取りそろえているようだが(インド航空は除く)、実のところ、これは単なるお色気サービスとは違うのである。そこには深甚なるスピリチュアルな意味が込められているのだ。 すなわち、乗客の七割を占める男性客にとって、若い美人スッチーってのは、大いなる安心をもたらす存在なのだ。 なんとなれば、万が一の事態が出来したとしても、「こんなに若くて美しいコと一緒に心中するなら、本望だっ!」、という諦念にも似た気持ちが生じるからである。 これがもし、人生の酸いも甘いも知り尽くしアタシャいつ死んでもかまいません…ってのが相手だったら、「ちょっと待ってくれよ、おりゃまだ死にたくない、助けてくれ〜」とパニクって、不測の事態が更に悪化することは間違いない。 だいたい乗客ってのは、ちょっとでも飛行機が揺れると、スワッ不測の事態だ!と思いがちなものである。
とゆーわけで、かわいらしいスッチーの存在は、快適な空の旅には、必要欠くべからざるものなのである。 これは決して女性差別などではない。そーなんだから、しょーがない。 あっ、もうじき高松空港だ。それでは今日はこの辺で。
今、高知市内のホテル。夜の11時半。ビジネスパートナーであるギャラリーの人々とディナーをして、帰ってきたところ。 しかし高知ってとこは、日本でニンニクの消費量の一番多い県なんだってね。 刺身にしても、生ニンニクのスライスを一片のっけて食う。 特にカツオのタタキなんかの場合、これがうまいのだ。ショウガなどと一緒に、ニンニクスライスをのっけて食う。みなさんもやってごらんになるといい。 ただし、生ニンニクだから、かなり臭うだろうな。高知ではみんなやってるだろうから平気なんだが、オレたちみたいに明日他県に出る場合なんか、嫌がられるかもしれない。
今朝、高松を出て、途中、金比羅さんなんかに登って、観光客をやってきた。 四国は死の国とも言われるスピリチュアル・アイランドだから、そうした神秘スポットが多いのだ。 この金比羅さんにしても、表向きは海の神様ということになっているが、ほんとうは「事開き」という意味で、龍神さんを祀ってあるんだそうだ。(昨日のビジネスパートナーである高松の呉服屋さんの話) この龍神さんは奥の院にいらっしゃるらしいんだが、僕らの場合、平生の運動不足もたたって、そこまで到達できなかった。(なにしろ本宮まで行くにも764段の石段を登らなきゃなんない) だれか今度、奥の院まで行く人がいたら、よろしく言っといて!
ところで、この観光地・琴平で、一杯200円の讃岐うどんを頑なに守っているうどん屋のオヤジがいる。 みなさんも金比羅参詣の折には、ぜひ立ち寄って、食べてほしい。 場所はJR琴平駅から金比羅宮へ向かって金倉川の橋をわたり、すぐ左に曲がった栄橋のたもと。「日本一うまいうどん」というでかいノボリが立っているからわかる。小さくて汚い店だが、ほんとにうまい。 「ねェおじさん、200円じゃ気持ち悪くて入りにくいから、せめて500円にしなよ」といくら言っても、「いやオレはあと30年は200円でがんばる」と、いっかな譲らない。 「でも200円じゃ苦しいんじゃない」と言うと、「うん、苦しい。だからダンナ、宣伝しておくれ」と言う。だから、こうして宣伝しているわけ。 店の名前は「川蝉」。電話75-3675
岡山でM氏に会う。Osho講話集『一休道歌』などを翻訳している人だ。(つまりSwami Anand Monjuのこと) 最近はもっぱら自宅でOsho翻訳にいそしんでいるらしい。今秋には久々に、めるくまーる社から新刊Osho講話集を出すという。中国・道教の教典を題材にした、プーナ一期のものだ。(題名忘れた…モンジュ、教えて!)
そのM氏に、市内の禅寺、曹源寺に連れてってもらう。 臨済宗の寺で、岡山藩主池田家の菩提寺という由緒ある寺だ。 山門をくぐると、しかし、一般の寺といささか趣を異にしている。雲水たち十数人が太極拳に励んでいるのだ。
雲水というのは禅の修行僧のこと。 今では寺に雲水がいるということ自体珍しいのに、よく見るとそれがみんな「青い目」なのだ。 女性も何人か混じっている。静かに坐禅を組んでいる僧たちもいる。 ここは日本でも数少ない、瞑想のための禅寺なのだ。
名高い老師(zen master)がひとりいて、弟子たちの指導にあたる。 雲水たちは朝の三時から起きて、坐禅に作務にと、修行に励む。 費用はいっさいかからない。 求道心さえあれば、国籍、年齢、性別問わず、受け入れられる。
瞑想好きのあなたにお勧め。 まあ、オレは遠慮しとくけど。 やっぱりOshoの道のほうがいいなあ。
日本最後の秘境といったら、ふつう思い浮かべるのは、西表島だろう。 先日、イリオモテイエネコの話をしたが、読者の中には、「西表にはそういう特別のネコ科動物が棲息している」と思った人もいるらしい。 いや、別にそういう動物はいないのだ。西表にいる普通の家ネコのことを、そう呼んだまでの話。
さて、日本には、西表以上の秘境が存在している。しかも本州の真ん中に。 大阪だっ! 今日は当地の原住民サニヤシンである、R氏、S嬢、D氏の案内で、ディープ大阪を探検するのである。
梅田から大阪環状線に乗る。大阪の山手線だ。 車窓からは、砲兵工廠跡とか、大阪城とか、造幣局とか、いろいろ見える。それをR氏がいちいち説明してくれる。はとバスみたいなもん。 桜ノ宮駅から京橋駅にかけては、大阪一のラブホテル街。 R氏の説明にいわく、大阪のネエちゃんたちは、正月になると晴れ着姿でラブホに乗り込むんだそうだ。そしておとそ気分でこころゆくまでパートナーと新年をことほぐ。これは東京にない文化だ。しかしその後が問題。晴れ着ってのは、脱がすのはキミでもできるが、着せるについては、そうはいかない。というわけで新年の大阪京橋では、着付師たちが東奔西走するんだそうだ。
鶴橋駅で下車。ここには大阪最大のマーケット街がある。 ところで、ちょっとつまんなかったのは、車内放送が完璧なまでに東京語であること。 せっかく大阪まで来たんだから、「次は鶴橋でおます〜」とかやってほしかった。京都だったら、「次は四条河原町どす〜」とかね。そしたら通勤時のイライラも解消するし、観光客も倍増すること間違いなし!
さて、大阪最大のマーケット街。京都の錦市場よりも、ずっと大きくて、ぐっと猥雑。特に韓国系の店が集まっている界隈がおもしろい。 チマチョゴリを売る店が軒を連ねていたりして ― 。靴を脱いで上がるスタイルで、日本の呉服屋や、インドのサリー屋を思わせる。 でも最高におもしろいのが韓国食料品街。何だかよくわからない食材がいろいろ並んでいる。 ここで買うキムチは絶品なんだそうだ。おなじみの白菜や大根キムチばかりではない。イカや、カニや、タラの胃袋のキムチまである。 ところでタラのことを韓国語でメンタイと言うのだそうだ。それでタラコの唐辛子漬けがメンタイコ。私の好物であるあの食品も、半島からの渡来品だったわけ。
さて昼食は、鶴橋駅近くのお好み焼き屋。 大阪に来たんだから、昼飯はお好み焼きだ! と私がリクエストしたわけ。 だいたい信州育ちのオレは、お好み焼きなんてぜんぜん知らなかった。初めて店屋で食ったのは、おそらく25歳の頃だったろう。 ああしたごたまぜ食文化は、大阪の特長らしい。いろんなものをいっしょくたに食べるから、栄養学的にも優れているという。
「ここのモダン焼きは日本一や」とR氏は言う。 モダン焼きというのは、お好み焼きの上に中華そばをのっけたもの。 あんな見てくれの悪いもの、オレひとりだったらよう食わん。 でもR氏がウマイと言うんだから、今日は試してみよう。
食っての結論。 あれは外見よりは、ずっとウマイ。食べてみる価値はある。
考察:大阪というのは、見栄にこだわらない文化なのであろうか!?
仕上げはサニヤシンらしく、古刹・四天王寺の見物。 入口の石柱に、「日本佛法最初四天王寺」とある。 物部守屋を倒した聖徳太子の建立という。 南門、中門、五重塔、金堂、講堂が一直線上に並ぶ四天王寺式伽藍配置に、遠く西方天竺のニオイがした。
とゆーわけで、今回の旅も終幕に近づいた。現在午後8時15分。中央線青梅行きの車内。今、荻窪駅に着いたところ。 今まで中野サンプラザで開かれていた「甦れ琉球國・新たなる時空へ」というイベントを見物していた。なにやら仰々しいタイトルであるが、杉並に本拠を置く「琉球國祭太鼓・東京支部」主催のお祭りコンサートだ。この「琉球國祭太鼓」とは、昨年末ウチの近所で開いたイベントに登場してもらって以来の縁。
「祭太鼓」ほか様々な団体が登場したんだけど、その中で一番印象に残ったのが、「阿波踊り」なのだ。 これは高円寺阿波踊り「飛鳥連」という団体なのだが、う〜ん、やっぱり阿波踊りってのは、ただモノじゃない。 下腹をしっかり固定させ、四肢で自由に踊るってのは、まさに瞑想の何たるかではなかろうか。 見ているだけで陶然としてくる。 達人ともなると、ほとんど身振りが消え去る。無への没入だ。(今日は登場しなかったが)
ところでもうひとつ。今日の阿波踊りのお囃子には二本の笛が登場したが、あの長い方の笛は何だろう? 驚くほど艶っぽい音色なのだ。篠笛ってあんな音を出すのだろうか。 その正体を確かめるべく、終幕後に楽屋を訪ねたのだが、飛鳥連だけもぬけのから。 どなたか、阿波踊りで使う笛のことを、ご教示願えまいか。
最後に、ホール前の出店で、沖縄そばを食って、しめ。 この旅は、始めも終わりも沖縄であった。 (う〜ん、でも量が少なかったから、もう腹が減ってきた)
今、夜中の0時20分。 東京で行われたOshoエンライトメントデー・セレブレーションから戻ってきたところ。 四十有余年前の今日、インド中部の都市ジャパルプールのとある公園の木下で、Oshoは悟りを開いたと言われている。 それを記念して、毎年3月21日、プーナのコミューン始め世界各地で「Oshoエンライトメントデー・セレブレーション」が行われるのだ。 東京でも羽田近くの天王洲アイルで行われた。 ただ、今日はちょっと遅いので、詳細はまた明日お伝えしたいと思う。
とゆうわけで、久々に自分の家でぱるばか日誌をやっている。 前方約三メートルのところでは、薪ストーブがチロチロ燃えている。 なんか真冬並みの寒波がやってきたみたいで、私はかなり安堵しているのである。 このまま春になってしまったらどーしよー! と、少なからず危惧していたのだ。 さすがにここは、標高250メートル、東京の寒冷地。しばれる! 今しばらくは火遊びが楽しめそうだ。
さて、昨日、私はOshoエンライトメントデー・セレブレーションに行ってきた。 ウチから会場の天王洲まで四回も電車を乗り換えての長旅だったのだが…。
サニヤシンになりたてのフレッシュな頃を思い出す。 当時は東急東横線のどっかでセレブレーションが行われていた。 電車を降りて会場に向かうにつれ、いったいどんな人々が来るのかしらと、なんとなくドキドキしたものだ。 で、そのサザレ石がイワオとなって、だいぶ苔むしてきた今となっては、会場への道中も淡々としたもの。 会場へ到着すると、そこはまるで同窓会のよう。
今回のセレブレーションは、OshoJapanが主催してくれた。 私は「くれた」と言う。そもそもセレブレーションの主催ってのは、ほんまに菩薩行なのである。 オレは去年同日のセレブレーションを主催して疲れ果て、しばらくは再起不能の状態。 ともあれ、こうゆうセレブレーションが近くで開かれたら、これはぜったい参加したほうがいい。 瞑想会にしてもだ。 Oshoの弟子たちが集うってのは、楽しいことだし、必ず得るところがあるものである。 私の登場する瞑想会が週末にかけて二つほどあるので、みなさんぜひどうぞ!
去年の11月。当ホームページのカウンターが一万になるのを記念して、Ten Thousand Buddhas プレゼントという企画をやったんだけど、そのとき、みごと一万人目をゲットしたのが五日市在住のN嬢。さっそく私は賞品の「ヴィギャン・バイラヴ・タントラ112枚の瞑想カード」を手渡したのであった。(みなさん覚えてる?)
このN嬢、このたび目出度くサニヤシンにおなりあそばした。 ま、サニヤシンになりゃいいってもんじゃないんだけど、なんないよりなったほうがいいよな。 名前はMa Jivan Pramoda。( Jivan=生 Pramoda=喜び)。どこかで会ったら、「プラモ〜ダ」と呼んでやっておくれ。
これで五日市在住のサニヤシンがまたひとり増えた。 私の知る限りで九人。 けっこうサニヤス密度が濃いぞ。総人口の0.07%。じつに700ppm。(ラットの致死量に相当!?)
ついでにあなたも移住してきたらいかが。 山紫水明、交通至便、いや不便。 アパート探しくらい手伝ってやるよ。2DKで五万台。 仕事の世話はできないけど。 修行だと思えば東京までだって通勤できるよ。
昨日、「修行だと思えば東京までだって通勤できるよ」と書いたところ、東京在住のT嬢より、「どのくらい修行すればいいの?」とのご質問を受けた。 それでは私が修行の御指南をいたそう。
つまりだな、毎朝、五日市から東京までとことん修行せんと欲するならば、道はただ二つ。すなわち、五日市発6時31分または7時3分の東京行きに乗るほかない。すると1時間20分後に新宿、1時間40分後に東京駅に到着するのである。 それ以外の電車は立川ないしは拝島止まりなので、修行の妨げとなること必定。
武蔵五日市の駅はJR五日市線の始発駅なので、各自ゆっくり坐って修行できる。 事実、この駅から乗車する人々はみな、サニヤシンでないにもかかわらず、坐るやいなや瞑目を始めるのである。 それでいつの頃からか、これら二本の電車は、「お召し列車」ならぬ「お瞑想列車」と呼ばれるようになった。
もしあなたが、都心に至る一時間数十分の間、こうした静的な瞑想にいそしみたいならば、是非とも武蔵五日市駅から参禅する必要がある。 次の武蔵増戸駅以降からの参加者は、ほとんどの場合、好むと好まざるにかかわらず、動的な瞑想、すなわちダイナミック瞑想あるいはハタ・ヨーガの勤行にいそしむことになる。 同じ武蔵でも、五日市と増戸とは大違いなのである。
教訓:なだたるローカル線・JR五日市線沿線に住居を定めるなら、同じ「武蔵」でも、「武蔵増戸」や「武蔵引田」は避け、「武蔵五日市」にすべし。
もしあなたが何かの間違いで武蔵増戸駅付近に居住し、にもかかわらず、今日はダイナミックをさぼりたいなと思ったら、いったいどーするか!? 奥の手がひとつある。 いつもより15分早起きして反対方向の武蔵五日市行きに乗るのだ。するとそれがそのまま折り返し、お瞑想列車に変容するのである。
さて、帰りの修行はどうするか。 ズーッと瞑目して五日市まで帰りたいという人は、東京駅から乗るほかない。それも17時24分発か、19時20分発武蔵五日市行きだ。この二本しかない。 神田・お茶の水・四谷から参禅する人は、最初のうちはハタ・ヨーガが約束されるが、新宿駅にて約30パーセントの確率で静的修行に転向できる。しかしそのためには、座席で瞑目している参加者のうち、小田急線や京王線、西武線や山手線に乗り換えそうな人を見分け、その前に立つという眼力が肝要だ。ゆめゆめ、五日市まで瞑想を続けそうな模範囚いや模範的衆生の前に立ってはいけない。 新宿・中野あたりからの参加者は、深い諦念をもって、国分寺ないしは立川あたりまで、しばしハタ・ヨーガに励むべし。
立川といったら真言立川流の故地だけども、車内でこの手の修行に励んでいる参加者は、未だかつていない。 理趣経なんて、とっても恥ずかしくって。 誰か先例作ってくんない?
Osho講話の中に、一番多く登場する料理はスパゲッティー。 女優はソフィア・ローレン。 そしてサニヤシンはサルジャノ。 (決して、スキヤキでも、山本富士子でも、日本語翻訳者Pでもない) ((この翻訳者Pってのは、Swami Prem Prabuddha のことであって、決してSwam Advait 某 のことではない)) 三国同盟では真っ先に脱落したイタリアだが、Oshoにとってはまっこと、愛すべき国だったわけだ。
その愛弟子ヨハネ、いやサルジャノが、こともあろうにプーナ・コミューンの中心イベント「ホワイトローブ瞑想」の席上、瞑想のために集まった何千人もの弟子達の前で、爆弾アナウンスをしたのだ。 ジャエシュを始めとするインナーサークル(コミューン執行委員)の面々を、名指しで批判したらしい。 今から一ヶ月半ほど前のこと。しばらくはコミューンも上を下への大騒ぎだったという。
私もこの騒動について何かコメントしようと思っていたのだが、なんせ遠い西方天竺のできごとゆえ、事の次第がよく飲み込めぬ。 その間にも、インターネットなどを通じて、いろんなソースから、いろんな情報が入ってくる。 で、プーナ帰りの人々からの報告なども考えあわせると、どうやら今は、雨降って地固まる的な状況に落ち着きつつあるらしい。 それでオレもホッとしているのである。
まあ確かに、インナーサークルの人々にも至らぬ点はあるだろう。 しかしオレはまず、あのような巨大な施設を維持運営している彼らに敬意を表するものである。 いろいろ苦労があるはずだよ。 オレなんかじゃとってもできない。
そもそも、インド・プーナにあるOshoコミューンというところは、世にも稀なる場所だ。 七年間にわたって世界を巡り巡ったオレが言うんだから、間違いない。(たぶん) 究極のリゾートだ。 Oshoがデザインしただけのことはある。
もちろんオレは十年以上にもわたってその恩恵を享けてきたわけだから、もう十分といえば十分なのだ。 だから別に、その存在に恋々としているわけではない。 たとえOshoコミューンが地上から消え去っても、その地で学んだことは内側に生き続けるはず。
しかしそれは、コミューンの水をさんざん飲んできたこの身だから言えること。 この世にはまだ、その水を一滴も飲んだことのない人がたくさんいるわけ。 そーゆー人のためにも、インナーサークルの面々には、これからもがんばってほしいのである。
それゆえにこのオレも、微力ながら、プーナを訪れた折には、なんなりとお手伝いする所存である。 台所仕事でも、皿洗いでも、便所掃除でも…。 (な〜んちゃって…。う〜む、便所かぁ…。インドのなあ。う〜む…)
で、その愛されし弟子サルジャノは、おさがわせの罰として、コミューン内でのクッキングを御差し止めとなったらしい。 彼はそもそもライター&フォトグラファーなんだけど、イタリア料理も得意なのだ。ときどきOshoカフェの厨房に立っている。 今回プーナに行ったときにも、彼らの作ったピッツァに何度かありついたものだ。これがけっこうウマイ。 今後そのピッツァの行く末が案じられるところである。
ま、イタリア人は掃いて捨てるほどいるから、大丈夫か。 なんでも現在ではドイツ人を抜き去って、コミューン内での最大勢力になったという話だから。
しかし、こういう雑文も、ヒマがないと書けないもんだ。 今日なんか、朝から青山へ出かけて、一日中帳場に座って、ついさっき午前様で帰って来たところ。 あまりにも多忙だったから、とってもぱるばかどころじゃない。 ばかになるにも、ヒマがいる。
というわけで、今日はこのへんで。 おやすみなさい。 Requiem eternum dona eis domine!(主よ、永久なる安らぎを彼に!) またご縁があったらお会いしませう。
明日は自由が丘で瞑想会。 僕は二時くらいから出演だから、ヒマな人はぜひどうぞ!!
今、JR五日市線の車内。午前11時10分。 これから目黒の自由が丘で開かれる瞑想会に参加するところ。
最近はちょくちょく、瞑想会への出演依頼がある。 瞑想を指導してくれというのだ。 さて私にどんな瞑想が指導できるのか!?
だいたい私は、セラピストなんて柄じゃ、ぜんぜんない。 セラピストに必要欠くべからざる人間心理に対する先鋭な洞察が、ほとんどないのだ。 だからオレが瞑想指導するって場合には、参加者個々の心理状態なぞほとんど顧慮することなく、ひたすら好きなことをやっているという次第。 にもかかわらず、こうして出演依頼があるってことは、それなりに意味があるのだろう。
だいたい主催者のノリからして、「瞑想者ぱるばの指導により深い瞑想の境地へ」というわけじゃなくて、「ぱるばも遊びに来るからみんなおいでよ」って感じ。 要するに人寄せパンダか。(そのワリにはあんまり人も集まらない…ウ〜ン、サニヤス界も人材不足か!?)
で、セラピストとか瞑想指導者になろうなんてテンデ思っていなかった私が、なぜこんなことをやっているのかというと…。 これはたぶん、ヴィギャン・バイラヴ・タントラ全十巻を訳したからだろうな。 これは瞑想法を指導するOsho講話集だったのだ。 十年の上もこの本とつきあっていると、門前の小僧じゃないが、その中身にだんだんと通じるようになってくる。 それで一昨年の春、近所のアグニ主催の瞑想会で、その112の瞑想法のうちいくつかを紹介してみた。 思えば、それが始まりだったのだ。
最初の頃は、面白そうな瞑想法を前もっていくつかピックアップして紹介していた。しかし、そうするとスリルがなくてつまらない。 それでやり方を変えた。原書に付属していた112枚の瞑想カードを使って、その場で瞑想法をピックアップし、紹介するというわけだ。 しかしそれはちょっとばかり危険を伴う試みなのだ。 というのも、瞑想会の席上で、カードを一枚引いたとする。そして出てきた瞑想法が、「蟻の這うのを感じるとき、諸感覚の扉を閉じる。そのとき」という第十の技法だったとする。さてどうするか。技法を読んだだけじゃ、何が何だかわからない。
そもそもこうした112の技法は、五千年前にシヴァによってもたらされたものだという。いずれも電文のように短い経文だ。だからちょっと読んだだけでは、ほとんど意味がとれない。 そうした古代の瞑想法に現代の光をあてたのが、ほかならぬOshoというわけ。 そしてこの八十講話にのぼる「ヴィギャン・バイラヴ・タントラ」シリーズは、その作業の記録でもある。
こうした判じ物のような瞑想法を、Oshoの指導のもとに体験してみるというのが、門前小僧ぱるばの「瞑想指導」なのだ。 ただし、いくら十年以上も本書とつきあっているからといって、「蟻の這うのを感じるとき、諸感覚の扉を閉じる。そのとき」という第十瞑想法が現れたら、それに関するOshoのガイダンスが一語一句の間違いもなく脳裏にポップアップする…ってわけじゃ、ぜんぜんない。 私の頭の内蔵ディスクは、それほど高性能ではない。
かといって、おもむろに訳書を開いて該当個所を参照するってわけにもいかない。 というのも、Oshoは興に任せてしゃべるので、主題があっちこっちへ飛ぶのだ。技法の解説をしているうちに、突如ジョークが始まったりする。 相手のいる瞑想会の席上だから、悠長に読書をしているヒマはないのだ。
そこで一計を案じた。 アンチョコを作ることにしたのだ。 技法解説のエッセンス部分を、できるだけ簡潔な形で、訳本から抜粋する。 どの技法が飛び出してもいいように、その抜粋を112の瞑想法すべてについて作る。 それをレイアウトして、プリントアウト。 これでアンチョコの完成だ。 これを瞑想会場に持参すれば、何が出てもだいたい大丈夫という寸法。
あっ、もうじき自由が丘だ。 それでは今日はこの辺で。
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