オショー
をめぐる最近のトピック '98
(前半)
毎年1月19日のオショー命日を中心におこなわれる、オショーコミューン最大の祭「オショーセレブレーション」。今年で8回目を数えるけれども、昨年七回喜(!)を盛大に祝ったこともあって、今までで一番静かな祭となったようだ。
クリスマス頃だったかな、コミューン側から何かひとつ出し物をやってくれという要請があった。つまり日本人か東洋人(日韓台)で何かやってくれということらしい。頼まれたらイヤとは言えないタチので、やりましょうと気軽に引き受ける。思い起こせば、昨年の大パレードでいちばん盛り上がったのが日韓台合作の「龍の舞」だった。
ところが、今年の日本人はみないたって静かなのだ。祭をやろうと声をかけても、返ってくるのはつれない答えばかり(まあオレに人徳がないせいもあるだろうが)。経済危機の韓国人なんかは更に元気がない。じつにこころもとないスタートとなった。ファーイースト・オフィスの長老ナロパによると、これはなにも東洋人ばかりでなく、コミューン全体の雰囲気なんだという。
そんな中で、ひとり気を吐いていたのが台湾人だった。出し物は「獅子舞」と「阿波踊り」ということになり、さっそく台湾人を中心に獅子づくりにかかる。
台湾の獅子は日本のとかなり違うようだ。二週間ほどしかない準備期間の中で、どうやって獅子頭を作るかいろいろ思案した結果、大きな発泡スチロールのボードを貼ったり削ったりして作ることになった。僕の主な役回りは、コミューン中をかけずりまわって、人材と資材の調達をすること。MGロードにも二度ほど出かけた。
そうして獅子が四頭ほどできあがる(写真右上)。また、五年ほど前に作られた日本式の獅子をひとつ、日本のお祭り男マハスックがどこからか見つけてくる。
獅子がそろってくると、今度は踊り手を見つけて獅子舞の練習だ。出し物の日時は17日の午後一時から二時の間。場所はピラミッドの中庭。それにあわせて構成を考える。音楽もつけにゃならん。みんな素人だからなかなかたいへんだ。
そして当日一時、獅子たちと楽士は二手に分かれ、ミーラとバショウから出発。鳴り物入りでコミューンのメーンストリートを練り歩き(写真左)、会場のピラミッド中庭に到着する。
プログラムの最初は、日本の獅子舞だ(写真右中)。獅子はマハスックとコーシェンのダブルキャストで、独りで舞ったり、舞姫サダとからんだりでなかなかの熱演。
次いで台湾の獅子四頭の登場だ。これもダブルキャストで踊り手は八人(台湾三、日本五)。笛や太鼓・鉦や銅鑼で踊ったり、テープで台湾音楽を流したりで、まことににぎやかだ。
しめくくりには、観衆も巻き込んで阿波踊りに入り(写真左下)、だんだんテンポを上げて、最後は「オショー!」でおしまい。まあ満点とまではいかなかったが、短い準備期間の中で、よくやったというものだろう。僕は和太鼓担当で、最初から最後までしこたまたたかせてもらった(写真右下)。
ところでなぜ台湾の踊り手が少ないかというと、驚いたことに台湾人の男女比が一対十なのだ。なんでも、今コミューンにいる台湾人は、男が四人で女が四十人なんだそうだ。だから踊り手がなかなか見つけにくかったというわけ。(でもこの八人のうち半分は、元気な女の子たちだった)。
さて、この獅子たち、けっこう人気で、翌日もまた駆り出されることになる。同じ場所で行われた武道のデモンストレーション、およびミーラホールで行われたバラエティーショーにも登場し、獅子舞を披露している。当日は衛星テレビのスターTVの取材も入ったから、この獅子たちの姿は電波に乗ってアジア各地のブラウン管上に現れたことであろう。武道のデモでは、また僕もしこたま太鼓をたたかせてもらって、非常に楽しかった。他人主催のイベントに招かれて出演するってのは、気楽でいいものだ。
というわけで祭も終わり、僕のプーナ滞在もあと十日余り。人々の手助けでもしながら、のんびり余生を送りたいと思う。
3月21日の『禅ライブ・セレブレーション』は、オショー最後の講話集『禅宣言』(原題はThe
Zen Manifesto)の邦訳出版記念という性格もある。
この『禅宣言』の翻訳および出版に至る波瀾万丈の経緯は、本ホームページ内「沖縄の姉御と兄貴たち」を参照のこと。
結局、この訳本は市民出版社の手で、3月21日のオショーエンライトメントデーに出版されることになった。すでに岡山のスワミ・モンジュによる照稿も終わり、第一校の手入れも終了し、最後の推敲を残すのみになっている。前書きはウパニシャッドが書き、最後には解説もかねて僕があとがきを書いた。
それではその「訳者あとがき」を、一足早くここにご紹介しよう。
〈『禅宣言』訳者あとがき〉
本講話集の背景
インドの覚者オショー(和尚、一九三一〜一九九〇)は、その六十八年の生涯のうちに、六千回以上の講話(説法)をおこなっている。本書『禅宣言』には、その最後の十一講話が収められている。
このオショー最後の講話シリーズである『禅宣言』は、一九八九年二月二十日から同四月十日の間に、インド・プーナにあるオショーコミューンのゴータマ・ザ・ブッダ・オーディトリアム(通称ブッダ・ホール)で語られたものだ。
当時オショーは長期にわたり、禅について語り続けていた。前年の春四月に始まった『Live Zen(生きている禅)』を筆頭とする、一連の禅講話シリーズだ。この禅講話シリーズは『禅宣言』の終了する一九八九年四月まで、約一年続くことになる。これだけ長期間ひとつの伝統が取り上げられるというのは前例がなく、禅に対するオショーの愛好を物語るものであろう。また講話の最後にオショーがみずから瞑想を指導するというのも、この一連のシリーズの著しい特徴であった。
この禅講話シリーズは、英語の原書で合計二十八冊の本となって刊行されている。そのうち日本で翻訳出版されているのは、現在のところ、『これ、これ、千回もこれ』、『道元』(いずれも和尚エンタープライズジャパン刊)、『臨済録』(めるくまーる刊)、『空っぽの鏡・馬祖』、『ノーマインド』(いずれも壮神社刊)の五点。
こうした禅講話シリーズには、題材として禅の「経文」が使われた。主に中国・唐代に活躍した禅師たちの言行録だ。こうした「禅経文」は、オショー蔵書の中にある禅関係の英書からとられていた。その経文の調達係を務めていたのが、本講話集の中にもよく登場するオーストラリア人の女性弟子マニーシャだ。マニーシャはまた毎日オショーに禅に関する質問を提出し、なおかつ講話の席で冒頭に経文を読み上げる係もしていた。
公案集『碧巌録【へきがんろく】』や『無門関【むもんかん】』を題材に始まった禅講話シリーズであるが、その後、馬祖【ばそ】、臨済、趙州【じょうしゅう】など特定の禅師ごとにシリーズが組まれるようになる。また禅と並んで、そのときどきの時事問題や政治向きの話、キリスト教批判やソビエト共産主義問題などが語られるようになる。
また、講話の題材となるべき禅経文が払底してきたこともあり、日本から禅籍を取り寄せ、日本人の翻訳者グループがコミューン内でその英訳作業を開始する。当初そのグループの責任者をしていたのが、本書の照稿者スワミ・モンジュであった。私(訳者)も一九八九年十一月に渡普【とプー】し、その頃ちょうど帰国を控えていたモンジュと選手交代したのだった。私たちの翻訳した経文は翌一月中旬から使われ始めたが、自分の訳したものが講話の席でオショーに読まれるというのは、また何にも代えがたい快感であった。禅マニフェスト
一九八九年の初頭は、オショーの肉体が最後の一閃を放った時期だった。前年の十二月末からほぼ二ヶ月間、ほとんど毎日のようにブッダ・ホールに姿を現し、弟子たちに語りかけ、瞑想の指導をしていた。講話はときに四時間にも及ぶことがあった。
その年の二月二〇日、前日終了した『God is Nowhere, Life is Now Here(神はいずこに、生は今ここに)』に代わって、新たな講話シリーズ『The Zen Manifesto』が始まった。この『The Zen Manifesto』というタイトルは、言うまでもなくマルクス=エンゲルスの『The Communist Manifesto(共産党宣言)』を念頭に置いてのものだ。
本文にもあるとおり、本シリーズは、今まで西洋に禅を紹介した人々をひとりひとり採り上げ批判するというものだった。その初回が鈴木大拙だったということもあって、しばらく続いていたキリスト教批判に飽いた耳には新鮮に響いたものだ。禅経文は丹霞天然など、石頭門下の禅師たちのものだった。ところが二日語ったところで、オショーはふっつりと姿を現さなくなるのである。
オショーがブッダ・ホールに再び現れたのは、一ヶ月以上たった四月二日のこと。それで本書第三章の冒頭で、「友よ、長い間待ったけれども、それこそが禅の心髄だ――待つ、なにもなくただ待つ」、と語られるのだ。そして一週間たった四月九日、本シリーズは十講話をもって終了する。翌十日からは『ブッダの目覚め』という新シリーズが始まった。経文を『洞山録』からとり、禅についての質疑応答を中心に進められるはずだった。ところが一日語られたところで、再びオショーは姿を見せなくなる。
それからひと月たち、ふた月たち、オショーはいっこうにその住まいである老子館【ラオツ・ハウス】から出てこない。一度マニーシャから「今度オショーは法華経について語るらしい」という話もあったが、それも実現することはなかった。ほどなくして、本書の原書となる『The Zen Manifesto』が、四月十日のオショー最後の講話も含め、全十一章で刊行されることになる。
その年の七月、満月セレブレーションの夜、オショーは三ヶ月ぶりにブッダ・ホールに姿を現す。しかしその肉体としての存在は、見るからにあやうく、こころもとなきものだった。以後、オショーは健康の許すかぎりブッダ・ホールに現れ、沈黙と音楽のうちに弟子たちと交流するのであるが、二度と公の場で語ることはなかった。そして翌一九九〇年一月十九日、世を去るのである。本書の翻訳
当時コミューンに滞在していた私にとって、この講話シリーズはとても楽しいものだった。それでシリーズ終了直後から、よほど翻訳に着手しようかと思ったものだ。しかし、かねてより『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』シリーズ(市民出版社より全十巻で刊行中)を翻訳中でもあり、漸くその誘惑を退けたという経緯があった。また、本書に使われている禅経文も、その多くは自ら手がけたという思い出もあった。
余談ではあるが、本書第一章に、「これを翻訳した人間はそれを忘れている。彼によれば、丹霞天然はたんに『像を燃やしたのはゴータマ・ブッダの骨を拾うためだ』と言ったことになっている」(**頁)とある。この「翻訳した人間」というのは、じつは私のことだ。禅の知識もほとんどなく、突然禅籍の英訳に携わることになった私は、ほんとにいろんな珍訳誤訳をやってのけた。「舎利」のことも、たいして考えもせずに「骨(bones)」とやってしまったのだ。そこをオショーに指摘されたというわけ。その夜、ブッダホールの白大理石の上に座りながら、冷汗三斗という次第であった。
本講話集の翻訳出版を早くから望んでいたのが、本書に「まえがき」を書いているウパニシャッドこと喜納昌吉だった。しかし翻訳作業が思うようにはかどらない。結局その仕事は、回り回って私のもとにやってくることになる。四年ほど前のことだった。私にとってみれば、思い出深い講話集でもあるし、断る理由はない。タントラ翻訳の合間を見て、仕事にかかる。
いちばん苦労したのが「俳句」の部分だった。この「Haiku」というのが、必ずしも俳句ではないらしい。たとえば去来の句にしても、国会図書館で「去来全句集」を何回繰ってみても、該当するような俳句が見つからない。それに、俳句にしては、なにやら短い。後にプーナのオショーの図書館に入って蔵書を調べたところ、これが蕉風連句集『猿蓑』から採られていたことがわかる。つまり連句の七・七(短句)部分だったのだ。「サルダール・グルデヤル・シンの時間」、つまりジョークは、コミューン・ジョーク部の収集・作成によるもの。あまりデキのよくないのもあるが、まあオショーがホールで読み上げたものだ、忠実に訳そう。
オショーの訳書はすべからく、翻訳後に原典照合することになっている。その労を取ってくれたのが、先にも述べたスワミ・アナンド・モンジュ(文殊正規)だ。禅の大学で学んだ彼には、訳文の上でもだいぶお世話になった。また、表紙の「禅」の文字をはじめ本書を飾る墨蹟の数々は、毎年プーナを訪れる上海の書家・邱正平の揮毫になるものだ。一九九八年三月二十一日 スワミ・アドヴァイト・パルヴァ(田中ぱるば)
〈訳者あとがき終わり〉
上にも書いた通り、本書に使われている書は、邱正平の作。そのうち何点かは、今回プーナで本訳書用に揮毫してもらったのだ。邱正平というのは、現存の書家としては唯一、北京の人民大会堂に作品所蔵されているというエライ人で、十年ほど前からほとんど毎冬のようにコミューンを訪れては、書道パフォーマンスをしたり、書道グループをリードしたりしている。『禅宣言』の英語原書にも彼の書が使われている。
今回もプーナで彼と一緒になり、訳本用に揮毫を頼んだら快諾してくれ、書道パフォーマンスの場で四点ほど書いてくれた。
カバーデザインのほうは、スワミ・タブダールの手で着々と進んでいる。何点かデザインを起こし、その中からひとつ選ぶのだという。でもどれにしたらいいか、ちょっと悩んでいるみたい。決まったらまたお知らせしませう。
いやはや、セレブレーションをオーガナイズすることの大変さよ。企ての成功・不成功よりもまず、それが無事終わったことが、素直にうれしい。
そもそも計画自体に無理があったのだな。
あのこじんまりした「すみだリバーサイド」に、チャンプルーズを全員呼ぶってのが、ちょっと無謀だったのかもしれない。プロのバンドだから、とにかく機材がすごい。ホール側には、それを運び入れるような準備も設備もない。そもそもコンサート・ホールじゃないからね。こんなイベントは初めてだったみたい。
さらに悪いことには、当日、大阪から音響機材を運んでくるはずのトラックが一時間も遅れて到着。チャンプルーズのキーボード奏者プーシャンから、「今日はどうなるかわかんないよ」と、しょっぱなからおどかされる始末。
そんなこんなで準備に手間取り、12時開場のはずが、1時にずれこんでしまった。入り口には既に多くのお客さんがつめかけ、なんとなく不満顔。準備万端整えていたセッションギバーのみなさんにも、多大な迷惑をかけてしまった。これが今回最大の反省点。
一時間遅れで始まった第一部だったけど、用意した70コマほどセッションは開場後20分ほどで全部売り切れ。けっこうな盛況だ。
この第一部、すごくよかった。今回、手間を省くためにブース間の仕切をいっさいせずに、まったくの平戸間でやったんだけど、それがかえってよかった。(写真左)
それぞれのセッションギバーのエネルギーあるいは瞑想性が溶け合い、全体がひとつのエネルギー・フィールドのようになったのだ。これは皆がオショーのサニヤシンだからこそできたことだと思う。
それぞれに手法は違っているけれども、底流には同じ瞑想がある。それがひとつのオーラのように会場全体を包み込み、とても気持ちのいいスペースを創り出していた。もっと長くやっていたかった。
そして時間通り第二部が始まる。まずは前日インドから飛んできたアヌブッダの「コンシャス・タッチ」。オレはもうそのときには疲れ切って、会場の隅に椅子を並べてこっそり寝ていたんだけど、ちゃんと出席した人たちには、すごく評判がよかった。別に他人を癒してやろうというのじゃなくて、ただ触れることを瞑想にしようという手法だ。瞑想というものを初めて体験した人々からも、「とってもおもしろかった」という感想をもらった。
お次は名古屋+大阪合同の「オショー七福神」。名古屋のプラディープ、ラーマプレム、バグワット、大阪のビルー、リタンバラといった七人衆だ。まずはミュージック&サイレンス。アメリカから駆けつけたパンタ笛吹のオカリナも加わって、瞑想的な空間をクリエートする。それからおなじみのサニヤス・ミュージックだ。後にチャンプルーズが控えているから、どちらかというとソフトな選曲。
ところでこの名古屋の人たちはその夜わが家に泊まったんだけど、とにかくケッサクな人々だ。のほほんとして、細かいことに拘泥せず、マイペースで楽しそうにやっている。オレも見習いたいと思ったものだ。
休憩をはさんで6時半から、「禅宣言」出版記念・喜納昌吉トークの時間(写真中・撮影/児玉)。ステージの上にクッションを置いて座り、オレが聞き手となって、いろいろしゃべる。オショーの思い出とか、サニヤシンのこととか、どうして「禅宣言」を出版したいと思ったかとか。これがなかなか楽しくて、もっとやっていたかったのだが、あんまり二人で楽しんでいても悪いと思って、十五分ほどで切り上げる。
続いてチャンプルーズ・ライブだ。ちょうど沖縄でレコーディングの最中だったが、この日のために、総勢八人で駆けつけてくれた。いつものエネルギッシュなステージが始まる。ウパニシャッドはどうやら、聴衆が全部サニヤシンだと思っていたらしい。普段になくリラックスした感じで、嬉しそうにやっている。(写真下・撮影/秋好恩)
この第二部の三組、みんな驚くほど時間が正確で、誰ひとりとしてむやみに引っ張ることがなかった。おかげで予定に八時にはきっちり収まった。
というわけで、開始時を除いてさしたる混乱もなく、めでたくセレブレーションは終了いたしたのであった。主催のオレもウシュマも数字に関しては非常にいい加減なので、いったい何人の人々が参加したのか確たるところはわからないが、二日後に行われた実行委員会の反省会では、全部あわせるとたぶん400人近く来ていたのではないかと……。それで主催者発表は400人ということにしました。
みなさん、ご参加、ご協力、どうもありがとう。
今日は、アカーモ神吉(かんき)のオーガナイズしたコンサート、Beat Ecstasyに行ってきた。場所は東京・上野の水上音楽堂。アカーモといったら、かつてはかなりの暴れん坊サニヤシンだったらしいが、こうしたイベントもちゃんと主催できるんだから、見直した。
五時間にも及ばんとするお祭りコンサートで、和太鼓二組、アフリカ太鼓一組、そして瞑想的音楽一組という構成だった。瞑想音楽は二番目の出し物だったが、これはアカーモの作品。ミュージシャンはアカーモ(右写真の右端でヘッドフォンをしている人・アフリカ木琴)のほか二人。そして名高いサニヤシン・セラピストのアイコが、ときおり言葉で聴衆を誘導する(写真左端で飛び上がっている人)。
「はいみなさん、目を閉じて……、あなたは今、緑ゆたかな田舎にいます」とか、「はい今度は魚になります、深い深い海の底に潜っていきます」とか、「それでは立ち上がってジャンプしましょう」とか、音楽にあわせてインストラクションがある。それに従っていると、けっこう気持ちいい。都会の真ん中にいることを忘れて、リラックスする。
でも薄目を開けて周りを見回してみると、あまりみんなまじめにやっていない。どうやら聴衆はこういうことにあまり慣れていないらしい。
しかし、これは今までにないおもしろい試みだと思うから、これからもいろいろ実験してみてほしいものだ。
名古屋在住のイギリス人歌手であるニーラも登場し、音楽にあわせて即興で歌う(写真右)。この人も長くオショーのまわりで歌を歌ってきた人だ。去年はプーナで僕の和太鼓と競演したりもした。
ギニア人のユールを中心にしたアフリカ太鼓もすばらしかったが、僕はやっぱり和太鼓が好きだ。この日本の楽器は偉大だと思う。久しぶりに思うぞんぶん踊らせてもらった。
サニヤシンのミュージシャンたちも、西を向いてばかりいないで、もうちょっとこうした土着の音を見直してもらいたいものだ。(西洋のまねをしたって、ぜったい勝てないんだから)
ともあれ、予想以上にすばらしいイベントだった。アカーモは近々CDも出すということで、今後の活躍を期待したい。
苦節十二年、やっとオショー著『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』全十巻の翻訳出版が完了した。
今日はその出版記念パーティ。場所は市民出版社の母体、オショーサクシン瞑想センターだ。実は前日から養沢瞑想キャンプが行われていて、その終了後サクシンに駆けつけるという、ちょっとハードな日程だった。だいたいどのくらいの人が来てくれるか未知数であったが、最終的には五十人ほどの参加者があり、思った以上に盛り上がったパーティだった。
今まで拙訳で十二冊のオショーの本が出版されたが、パーティを開いてもらったのは十二年目にしてこれが始めて。いや、なかなか楽しかった。こうしたイベントはお客さんで招待されるに限る。特に今回は僕がメーンゲストみたいなもんだから、もう言いたい放題。おそらくは五分ほどの予定だった訳者あいさつが、あることないことしゃべりまくって、二十分くらいになってしまった。ま、十二年分の思いが込められていたんだから、許してもらおう。
そのあと、デザイナーや編集者など制作スタッフのあいさつがあって、それぞれがおおいに楽しんでこの仕事をやってくれたとの由、僕としてもうれしいことだ。本シリーズが一般読者から好評をもって迎えられているのも、むべなるかなというところだ。オショーのワークというのは、きちんとやれば、相応の結果が出るということだろう。
続いて不肖・私のリードで、本シリーズ百十二の技法の中から、瞑想を体験する。本シリーズの英語版にはオールカラーの百十二枚の瞑想カードが付属しているのだが、そこから一枚、無作為に抽出する。参加者のひとりにカードを引いてみてもらったところ、出てきたのは技法第七十八番、『注意が何かの上にとまるとき、まさにその瞬間、体験する』だった。そこでさっそくみんなでその瞑想技法を体験する。
さらにもうひとつ、その二つ前の技法第七十六番、名高い「闇の瞑想」を体験する。『暗夜の雨の中、その暗黒に入る
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諸形態の形態として』というものだ。部屋を真っ暗にして、ひたすら闇を凝視する。オショーも学生時代にこれを実行したそうだ。(詳しくは拙訳『光と闇の瞑想法』を参照)
そして今度はお楽しみ抽選会。瞑想センターの用意したオショーダイアリとか、オショービデオ、講話CDなど、抽選でプレゼントされる。こうしたアトラクションの司会進行は、実は僕は翻訳より得意なのだ。
十個ばかり用意されたプレゼントの最後は、なんと『ヴィギャン・バイラヴ・タントラ』全十巻セット! 実は当初これは「全十巻」セットじゃなくて「第十巻」一冊だったんだけど、せっかくの「全十巻完結パーティ」なのだからと、市民出版社社長のパトラにお願いしたところ、彼女も快諾してくれたというわけ。
オレもオショーセレブレーションの抽選会はいろいろやったが、こんな豪勢な景品は初めて。キーボーティストのアナンディが奏するドラマチックなファンファーレの中、栄えあるゴールデン・プライズに輝いたのが、まだ西も東もわからないような女学生だった(写真左
Photo by
Soham)。これが出版記念パーティだとも知らずに来たんだそうだが、いい本なんだから、ま、しっかり読んでくれたまへ。
先日の台湾の記事でも紹介した、台北のサニヤシン、スワミ・ネトラ。年初のプーナ滞在中から中国語版の
オショー
orgサイトの準備を行っていたが、このほどめでたくインターネット上にアップされた。
台湾などで使われる伝統字体と、中国本土で使われる簡略字体の二本立てによるオショーホームページ。これによって大陸・台湾はもとより世界各地に散らばる中国系の人々十数億人に向けて、オショーのメッセージが発信されることになる。
アドレスはhttp://www.cn.osho.org。ただし、日本語と中国語ではフォントが違うので、残念ながら日本語システムのパソコンでは文字は表示されない。どうしても見たい人は、マイクロソフトのサイトをチェックしてフォントをダウンロードするか、中国語ランゲージ・キットを購入してインストールしてほしい。
右の写真は、いたずら者のネトラがメールで送ってきた、中国語版フロントページの縮小写真。どうしていたずら者かと言うと、日本語しか表示できない僕のために、どうやらわざわざ日本語の漢字フォントを使って作成したらしいからだ。写真をクリックすると、フルサイズのページが現れる。
五月最後のウィークエンドに催された、二日間のスワミ・アサンガ瞑想グループ。僕はその通訳を頼まれた。場所は東京・荻窪のオショーサクシン瞑想センターだ。
日本でグループの通訳をするというのは、たぶん今回が初めてだろう。アサンガには前から関心があったので、どのようなものか僕も楽しみにしていた。
彼のグループは、なにより瞑想が主題。リラックスした雰囲気の中で、余計なことにはかまわず、とにかくあなたの手をとって、ズパリ瞑想の深みへと誘う。参加者との質疑応答が中心のグループだ。
おもしろかったのは、その深みへの入り方だ。一所懸命、汗水たらして深みへと連れていくわけではない。ごくカジュアルに、ほとんど片手間仕事みたいな感じで、サラリと深みに入っていく。そしてその場に醸成される静寂は、実にたぐい稀なものだ。これは聞きしにまさる手業(アート)だ。ただ者じゃない。
今年六十九歳になるスワミ・アサンガ。インドに生まれ、長年インド大蔵省の高官を務める。オショーとの出会いは一九六四年、オショー二回目の瞑想キャンプのときだったというから、もっとも初期の弟子のひとりだ。以来、オショーの瞑想キャンプを組織したり、オショーのもとで瞑想を指導したりしている。
現在は世界中をまわり、各地でこうした瞑想グループを持っている。来日は今回で四度目だ。彼の履歴を見ると、「1984年に深い瞑想と自己変容のプロセスを体験」とある。この「深い瞑想と自己変容のプロセス」とはいったい何を意味するのか、関心のある人は実際に会ってみるといいだろう。
このアサンガ招聘の中心になっているダルマダスという人もまた、ただ者じゃない。滅多にいないケッサクな人だ。中小企業の社長なんだが、「瞑想かしからずんば死か」という感じで、いかにも楽しげに、ダイナミックに、アサンガのグループをオーガナイズしている。オレはこの人に会って、ああまだ日本のサニヤス界も捨てたもんじゃないわい、と思ったものだ。
あと数日でアサンガは離日するが、十月にはまたやってきて、八ヶ岳と横浜と福井で瞑想グループを開くという。当ホームページでもまたその情報をお伝えしたいと思う。真に瞑想に関心を持つ人には、ぜひお勧めしたいグループだ。
写真右端の白髭の人がスワミ・アサンガ、その左にカスカに写っているのが私。(Photo
by Soham)
梅雨の晴れ間の6月20日土曜日、用事ついでに鎌倉のユニティを訪ねる。JR鎌倉駅から江ノ電に乗り換え二つ目の由比ヶ浜で下車。徒歩一分ほどの住宅地の中にある新しいオフィスだ。代表を務めるスワミ・ガタサンサ(江谷信壽…写真左の人物)は、前日の19日、イギリスから戻ったばかりだという。
このユニティ、正しくは「和尚アートユニティ」という名称だ。「アート」という名を冠していることからもわかるとおり、ここは長年の間、オショー版画の作成・販売に携わってきた。世界のオショーシーンのいたるところでお目にかかる、オショーサインなどのカラフルなシルクスクリーンだ。我が家にも一点、リーラシリーズの14番がある。織物のような美しい作品だ。
さてこのユニティ、オショー版画のほかに、最近もうひとつ注目すべき活動をおこなっている。それはオーラソーマの日本総代理店としての仕事だ。
数あるスピリチュアル・セラピーの中でも、おそらくはもっともファッショナブルなものとして、特に女性の間で人気の高いオーラソーマ。プーナのオショーコミューンでもトレーニングコースが行われるなど、オショーワールドの中でもすっかりおなじみで、僕らのかかわる瞑想会にもしばしば登場する。
僕のまわりにもオーラソーマ関係の人がたくさんいるんだけど、ではそのオーラソーマっていったいなに?と聞かれると、じつは僕もよくわからないのだ。
そこでオーラソーマについて知りたい人は、創始者ヴィッキー・ウォール著『オーラソーマ』(和尚エンタープライズジャパン刊/\1700)を読んでみるといいだろう。僕もさっそく購入し、これから読んでみようと思っている。
またこのユニティからも、昨年より『Living
Energies』(リヴィングエナジー)というオーラソーマ・マガジンが創刊された。写真右は今年二月に出たその第二号。ガタサンサが編集人を務める美しい雑誌だ(デザインはスワミ・ジュン/\1800)。国内のオーラソーマ関連の記事、イギリス版からの翻訳、エッセイなどもりだくさんな内容だ。(問い合わせは和尚アートユニティTEL:0467-23-5683,Eメールoshounity@aol.comまで)
ユニティは現在、ホームページも作成中だ。アドレスはhttp://www.oshoartunity.com。オショー版画とオーラソーマ情報を扱っているが、まだ英語の部分しかできていない。日本語パートの完成が待たれる。